鎌田庄(読み)かまたのしよう

日本歴史地名大系 「鎌田庄」の解説

鎌田庄
かまたのしよう

下三江しもみえ庄ともいう。古代の城崎きのさき郡三江郷(和名抄)の一部、円山まるやま川右岸の鎌谷かまたに川流域に成立した庄園で、はじめ松尾まつお(現京都市西京区)領、次いで京都天龍寺領、さらに宝幢ほうどう(鹿王院、現京都市右京区)領。「但馬考」は庄境しようざかい・鎌田・南谷みなみだに祥雲寺しよううんじ法華ほつけい(法花)馬路まじしもみや(下宮)梶原かじわら火撫ひなどの九村を「鎌田の庄と云」としている。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「下三江庄 五拾四町三反三百分」とみえ、「松尾社領」「号鎌田庄」の注記があるが、「不出注文之間、任古帳註進之」と記され、庄田の内訳記載や庄官名等の注記もない。永仁六年(一二九八)正月一三日付の北条貞時袖判奉書(鹿王院文書、以下断りのない限り同文書)によって、鎌田庄は鎌倉建長寺の造営料所とされたが、貞治五年(一三六六)八月二二日、建長寺領鎌田庄と天龍寺領武蔵国津田つだ(現埼玉県大里村)とが、両寺にとって「便宜之地」ということで相博(交換)された(建長寺寺司連署所領相博状)。応安二年(一三六九)一月一〇日には、太政官符・官宣旨により天龍寺金剛院領の一庄として、鎌田庄の伊勢神宮役夫工米、御禊・大嘗会以下勅役・院役ならびに都鄙寺社所役および国中段米・関米の免除をうけている。

鎌田庄
かまたのしよう

現甲府市南部から中巨摩郡昭和しようわ町・玉穂たまほ町にかけて存在した庄園。「中右記」保延三年(一一三七)四月一日条に「甲斐国鎌田庄奉寄関白殿、付式部権大輔宗光本券案文同進了、政所下文申請也」とあり、このとき日記の筆者中御門右大臣藤原宗忠から関白藤原忠通に寄進された。その直後同月二二日には斎院(輔仁親王の女怡子)への再寄進が議せられている(同書)。この問題のその後の経過は明らかでないが、安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)に甲斐国鎌田がみえるから皇室領となったことが知られる。この目録には前欠部分があるため、これだけではわからないが、嘉元四年(一三〇六)六月一二日付の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)によって、もとは歓喜光かんぎこう(現京都市左京区)領であったことが推定される。歓喜光院領は永治元年(一一四一)鳥羽天皇の皇后美福門院得子(藤原長実の女)によって歓喜光院が落慶すると同時に施入され成立し、永暦元年(一一六〇)門院の死後、娘の八条院(鳥羽天皇三女子)に伝領された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報