鏡堂覚円(読み)きょうどうかくえん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鏡堂覚円」の意味・わかりやすい解説

鏡堂覚円
きょうどうかくえん
(1244―1306)

鎌倉時代に来日した臨済(りんざい)宗の僧。中国、蜀(しょく)(四川(しせん)省)の人。詩人白玉蟾(はくぎょくせん)の子孫。天童寺(てんどうじ)の環渓惟一(かんけいいいつ)(1202―1281)の印可を受け、1279年(弘安2)春、無学祖元(むがくそげん)とともに来朝。北条時宗(ほうじょうときむね)の帰依(きえ)を受け、鎌倉の禅興(ぜんこう)寺、浄智(じょうち)寺に歴住し、奥州興徳(こうとく)寺の開山となった。のち禅興寺に再住、円覚(えんがく)寺、建長寺に歴住し、1300年(正安2)から7年間京都の建仁寺で教化に力を尽くした。嘉元(かげん)4年9月26日示寂。勅諡(ちょくし)は大円禅師(だいえんぜんじ)。『鏡堂和尚(わじょう)語録』3巻がある。

[中尾良信 2017年1月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「鏡堂覚円」の解説

鏡堂覚円

没年:徳治1.9.26(1306.11.3)
生年淳祐4(1244)
鎌倉時代臨済宗の中国人僧。蜀(四川省)生まれ。詩人の白玉蟾の後裔。無準師範法嗣である環渓惟一に参じ,その法を嗣いだ。弘安2(1279)年春,36歳のときに北条時宗の招きを受けた無学祖元に同行して来日した。無学は無準の弟子で,環渓の甥に当たる。時宗の崇敬を受け,鎌倉長勝寺をふりだしに禅興寺,浄智寺,開山となった奥州(福島)興徳寺を経て再び鎌倉の禅興寺に住した。10年後には円覚寺,建長寺に移り,正安2(1300)年には京都建仁寺に住した。諡号は大円禅師。門下に無雲義天などがいる。<著作>『鏡堂和尚語録』<参考文献>卍元師蛮本朝高僧伝』22巻

(藤田正浩)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鏡堂覚円」の解説

鏡堂覚円 きょうどう-かくえん

1244-1306 南宋(なんそう)(中国)の僧。
淳祐4年生まれ。臨済(りんざい)宗。蜀(しょく)(四川省)の人。環渓惟一(かんけい-いいつ)の法をつぎ,弘安(こうあん)2年(1279)無学祖元にしたがって来日。鎌倉の浄智寺,円覚寺,建長寺などの住持をつとめ,正安2年京都建仁(けんにん)寺16世となった。嘉元4年9月26日死去。63歳。諡号(しごう)は大円禅師。著作に「鏡堂和尚語録」。

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