建長寺の北西にある。瑞鹿山円覚興聖禅寺といい、臨済宗円覚寺派本山。本尊宝冠釈迦。開山無学祖元、開基北条時宗。鎌倉五山の一つ。
「仏光録」によると、弘安五年(一二八二)開堂供養が行われ、この時には仏殿・僧堂・庫院が建ち、本尊は盧遮那仏であったという。開山祖元は同二年来朝、初め建長寺に住したが、当寺開堂に伴い開山として迎えられた(元亨釈書)。開堂の翌年、北条時宗は将軍家祈祷所となし、尾張国
弘安八年頃に華厳塔が創建されたらしい(「黄梅院華厳塔再建奉加帳」県史三など)。同一〇年・正応三年(一二九〇)火災となり、また永仁元年(一二九三)鎌倉は大地震に見舞われた(北条九代記など)。この復興のため同年六月二五日に北条貞時は造営料所として尾張国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山。北条時宗が弘安の役直後の1281年(弘安4)に建て,翌年無学祖元を開山に迎えて開堂の法要を営んだ。中国の径山(きんざん)を模した左右対称の宋風の伽藍配置で,本尊は盧遮那仏。83年,時宗は幕府の祈願所とし,富田荘(愛知県)と亀山郷(千葉県)の土地を寄進している。時宗の死後,境内に廟所の仏日庵が成立し,つぎの執権貞時の廟所無畏堂も仏日庵に設けられて,北条氏の私寺的性格を強めたが,一方,1308年(延慶1)定額寺となり官寺の列にも加えられている。1287年と90年(正応3)に火災にあったが,鎌倉時代を通じて所領の寄進が相次ぎ,隆盛を極めた。1283-84年ごろには舎利殿が建てられ,1301年(正安3)には物部国光作の大きさ鎌倉一の梵鐘が鋳造されるなど,諸伽藍も整えられ,鎌倉末期には250~350人もの僧侶がいたほど繁栄した。建武新政府および足利尊氏からも,それまでの所領を認められ,南北朝の動乱期にも,いくつかの寺領を失ったが,30世大喜法忻(だいきほつきん)の俗弟の今川範国から寄進を受けるなど,駿河・武蔵・常陸に寺領の寄進があった。なお,1335年(建武2)には,それまで建長寺にあった開山祖元の塔頭(たつちゆう)正続院を円覚寺舎利殿に移している。室町時代には寺領は減少する一方で,74年(文中3・応安7)には全山を焼失し,足利氏満や義満の援助を受けて復興したが,1401年(応永8),07年,21年,59年(長禄3)とつづいて火災にあい,1420年,33年(永享5)には震災にあって衰退した。この間に当代一流の禅僧が住持に入り,寺中に塔頭が作られ,その数は50以上にものぼった。なかでも夢窓国師の黄梅院は関東夢窓派の中心として勢力をもった。永享の乱以降は衰微し,86年(文明18)ごろには仏殿が再建されたが,これも1563年(永禄6)には焼失している。
1591年(天正19),徳川家康から寺領として山内分113貫210文,極楽寺分31貫620文の地を認められ,江戸時代には,当初12の塔頭があったが,のちに9院が再興され,直末寺以下の門下寺院は86ヵ寺であった。明治期には,今北洪川(いまきたこうせん)が入寺し,在家者の居士禅を盛んにした。釈宗演(しやくそうえん)はアメリカに禅を布教し,その門下の居士であった鈴木大拙はアメリカに長期間在住し,禅文化の紹介に努めた。また夏目漱石も居士林で参禅した一人であった。現在,文化財としては,舎利殿,梵鐘(国宝),仏光国師(祖元)画像,同木造座像,前机,境内図,富田荘図,時宗書状,黄梅院の夢窓国師画像(重要文化財)など,多数が所蔵されている。
執筆者:広瀬 良弘
現存の舎利殿(国宝)は,1563年に円覚寺が大火炎上の後の復興に際して,鎌倉尼五山の一つ旧大平寺仏殿を移建したものである。方三間裳階付仏殿で,扇垂木,木鼻,花頭窓などの装飾細部や,内部架構法などに,本格的な中世禅宗様(唐様)建築の形式を伝える。建立年代は明らかでないが,来迎柱が後退せず,中央間と脇間の比が4対3を示し,木割が太く,全部の扇垂木を放射状に並べるなどの技法や,装飾細部からみて,15世紀前半ごろと推定される。
執筆者:宮本 長二郎
沖縄県那覇市にあった臨済宗妙心寺派の寺。山号は天徳山。1492年に尚真王が父尚円追福のため首里城北側に起工し,94年に完成。開山は南禅寺46世椿庭海寿の法孫,芥隠承琥。95年に仏殿の右側に照堂を建て正統の神主(位牌)を奉安したが,1728年には仏殿を宗廟とした。王家の香華所として琉球第一の禅刹を誇った。役知は1672年に60石と定まり,95年に40石加賜され寺院の最高となった。伽藍の修補などは1588年以降たびたびなされ,1721年に火災にあった際にも同年中に仏殿が再建された。《琉球国由来記》には正月3日・7月7日に当寺・天王寺・天界寺への先王御拝の行幸が記されている。30年には夏稲の初穂,翌年には春麦の初穂を献ずることが定められ,干ばつには国王みずから当寺で祈雨している。廃藩置県後の1884年尚家の私寺となり,第2次大戦で総門跡,放生橋,三門跡,左右脇門跡などを残して隠滅した。総門は1962年に復元され,72年に放生橋は重要文化財,円覚寺跡は史跡に指定された。現在は廃寺だが,以前よりの由緒ある地として現在も庶民の参詣が多い。
執筆者:新城 敏男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済(りんざい)宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山(ずいろくさん)。1282年(弘安5)北条時宗(ときむね)が怨親平等(おんしんびょうどう)の願いにより、元寇(げんこう)(文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役)の犠牲となった敵味方の兵士の霊を慰めるため、南宋(なんそう)から招いた無学祖元(むがくそげん)(仏光(ぶっこう)国師)を開山として建立したのに始まる。祖元は弘安の役には師として若い時宗を励まし、この大難を切り抜けさせた。1283年、時宗は尾張(おわり)(愛知県)、上総(かずさ)(千葉県)の土地を寄進して幕府の祈願所とし、1308年(延慶1)には定額寺(じょうがくじ)となり、伏見(ふしみ)上皇から「勅諡(ちょくし)仏光禅師」という宸筆(しんぴつ)を下賜(かし)された。北条氏が衰えてからも、夢窓疎石(むそうそせき)らの努力によって円覚寺は衰微を免れ、室町時代には足利(あしかが)将軍家および鎌倉公方(くぼう)の庇護(ひご)によって鎌倉五山第二位とされた。
円覚寺には開山無学祖元の直接の法系は続いていないが、その後、法系の異同を問わず多くの名僧が住持した。江戸後期には誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)が住して妙心関山(みょうしんかんざん)の法流古月派の禅を高揚して僧堂を再興、また、明治時代になってからは白隠(はくいん)系の今北洪川(いまきたこうせん)、釈宗演(しゃくそうえん)などが出て禅の布教に努めた。山内には文和(ぶんな)年中(1352~56)に足利尊氏(たかうじ)が仏満禅師を開祖として創立した続燈庵(ぞくとうあん)、伝衣山(でんえさん)と号し将軍足利義教(よしのり)の遺骨を収める黄梅院(おうばいいん)、もと北条氏の祠堂(しどう)であった仏日(ぶつにち)庵をはじめ、正続(しょうぞく)院、如意(にょい)庵、正伝(しょうでん)庵、寿徳(じゅとく)庵、済蔭(せいいん)庵、松嶺(しょうれい)院、蔵六(ぞうろく)庵、帰源(きげん)院、臥竜(がりゅう)庵、伝宗(でんしゅう)庵、富陽(ふよう)庵、白雲(はくうん)庵、雲頂(うんちょう)庵の16の庵と塔頭(たっちゅう)がある。門外の塔頭寺院としては東慶寺(とうけいじ)、浄智寺(じょうちじ)、瑞泉寺(ずいせんじ)がある。現在、円覚寺派に属する寺院は約200寺ある。山内には専門道場のほか、一般在家信者の修行道場である居士林(こじりん)、女性の参禅のための禅子寮(ぜんこりょう)があり、在家の信者の継続的な参禅が活発に行われている。
建物はしばしば火災にあったが、1625年(寛永2)に復興した。現在、山門、仏殿、方丈、舎利殿(開山堂)などがある。舎利殿は1563年(永禄6)の大火後に太平尼寺から移建したもので、禅宗様建築の代表として国宝に指定されている。仏殿は1923年(大正12)の関東大震災で倒壊、63年(昭和38)に再興したものであるが、「大光明宝殿」の額は後光厳(ごこうごん)天皇の宸筆(しんぴつ)。山門は江戸中期の作で、江戸形式の傑作といわれる。「瑞鹿山」の額は後光厳天皇(あるいは後小松(ごこまつ)天皇)の宸筆と伝えられる。東方の山上にある梵鐘(ぼんしょう)(国宝)は1301年(正安3)北条貞時(さだとき)がつくったもの。総門の左右の池を白鷺(はくろ)池といい、祖元が来日したとき、八幡(はちまん)大神が白鷺(しらさぎ)の姿で鎌倉まで導き、この池にとどまったという。寺宝には仏涅槃(ぶつねはん)図、張思恭(ちょうしきょう)筆と伝えられる羅漢(らかん)図33幅、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)像・仏光国師像などの絹本着色画像ほか、銅造阿弥陀(あみだ)如来および両脇侍(わきじ)立像、木造仏光国師坐像(ざぞう)、北条時宗の書状など、国の重要文化財指定のものが多数ある。
[菅沼 晃]
『荻須純道著『日本中世禅宗史』(1965・木耳社)』▽『荻須純道著『京・鎌倉の禅寺』(1963・教育新潮社)』▽『『古寺巡礼 東国4 円覚寺』(1982・淡交社)』
沖縄県那覇(なは)市首里(しゅり)当蔵(とうのくら)町にあった寺。臨済(りんざい)宗に属し、天徳山と号した。1492年(明応1)第二尚(しょう)氏第3代の王尚真(しょうしん)が亡父尚円(しょうえん)の冥福(めいふく)を祈って創建。以来、その香華院(こうげいん)とし、芥陰(かいいん)を開山とした。仏殿、竜淵殿(りゅうえんでん)、山門、天女堂などの七堂伽藍(がらん)を備えた沖縄本島中第一の巨刹(きょさつ)であったが、第二次世界大戦で焼失し、現在は1968年(昭和43)に復原された朱塗りの総門と、放生橋(ほうじょうばし)(国の重要文化財)のみが残る。
[大鹿実秋]
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神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の大本山。正式には円覚興聖禅寺。瑞鹿山と号す。北条時宗が,元寇で死んだ人々の追善のため無学祖元(むがくそげん)(仏光国師(ぶっこうこくし))を開山として建立。1281年(弘安4)建立が開始され,82年には僧堂ほかが完成した。室町時代には鎌倉五山の第2位に位置づけられた。明治期には夏目漱石ら知識人・官僚・軍人が参禅し,一種の在家仏教である居士禅(こじぜん)の集団である人間禅などが形成された。梵鐘と舎利殿などの国宝があり,重文としては「仏涅槃図」「無学祖元像」,無学祖元木像,銅造阿弥陀如来および両脇侍立像,「円覚寺境内絵図」「尾張富田荘図」など。200通をこえる中世文書もある。庭園は国史跡・国名勝。
琉球最大の官寺。首里城の北側に近接する。臨済宗,山号は天徳山。開山住持は京都南禅寺の芥隠(かいいん)禅師。1494年先王尚円(しょうえん)の祭祀のため創建され,以後第二尚氏王朝の宗廟となる。先王祭祀は仏式を基本とした。歴代の住持には五山僧の檀渓全叢(だんけいぜんそう)などがおり,近世初頭には菊隠(きくいん)が名僧として知られる。知行高には変遷があるが,1695年以降は100石であった。主要な建物として竜淵殿・仏殿・獅子窟・御照堂などがあったが,第2次大戦の沖縄戦で破壊された。旧址は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…農林漁業を中心とし,深浦港の整備によりイカ漁を主とした漁業の振興に力を入れている。深浦東部にある円覚寺は貞観年間(859‐877)の創建と伝えられ,薬師堂内の厨子(重要文化財)は県内最古の木造工芸品とされる。大戸瀬崎から艫作(へなし)崎にかけては断崖,奇岩,洞穴などが多く,津軽国定公園に指定されている。…
※「円覚寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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