長崎浦(読み)ながさきうら

日本歴史地名大系 「長崎浦」の解説

長崎浦
ながさきうら

中世よりみえる彼杵そのき庄にあった浦。戦国期にはポルトガルなどとの貿易港として都市化の様相を呈し、また宗教都市の性格も帯びていた。史料上は永埼などとも記される。

〔永埼浦と長崎氏〕

正嘉二年(一二五八)一二月二六日の彼杵庄惣地頭代後家尼某請文(深堀文書)に「戸町・永埼両浦」とみえ、彼杵庄戸町とまち浦の地頭深堀行光と杉浦すぎうらをめぐって相論となった惣地頭代の戸町氏の後家尼は、杉浦は戸町浦と永埼浦の境で、かつて戸町本主の丹藤次俊長と永埼本主四郎俊信の相論で決着がつかなかったため、両者から惣地頭に譲渡されてから四〇余年が過ぎていると主張している。この永埼氏を開発領主とする説があるが、嘉禎三年(一二三七)頃長崎小太郎らは、源頼朝のとき以来彼杵庄御家人が勤めてきた京都大番役を勤仕しなくなったとされており(弘安六年一二月一日「関東裁許状写」福田文書)、永埼氏・長崎氏の存在はさらにさかのぼるようである。古代より長崎半島西岸などに勢力を広げていた丹治一族であったとする見解もある。嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)に「長崎浦」とみえ、嘉暦三年に実検帳が作成された。暦応五年(一三四二)戸町浦で放火狼藉を行ったとして深堀時元らとともに長崎四郎が出廷を求められている(同年三月二〇日「藤原直幸召文」深堀文書)。正平一八年(一三六三)「長崎矢上ノ八郎」平重純が彼杵南方一揆に(同年八月日「彼杵南方一揆連判状写」福田文書)、応安五年(一三七二)には長崎矢上周防孫六が彼杵一揆に参加している(同年九月二六日「彼杵一揆連判状断簡写」同文書)。戦国期、長崎氏は大村氏の勢力下にあり、大村純忠は福田兼次・樒三郎左衛門に、「長崎城戸被仰合、御馳走頼存候」「定長崎其方之儀者、従船可被出候哉」としている(年未詳七月二三日「大村純忠書状写」同文書)。また両氏は長与ながよ(現長与町)・長崎に駆け付けるべきことを命じられている(年未詳二月一二日「大村純忠書状写」同文書)。長崎氏一一代の純俊は稲佐いなさに居所を構え、一四代純景は春徳寺しゆんとくじ(城の古址)に居城したという(新撰士系録)。天正三年(一五七五)島津家久は帰郷の途次、九十九くじゆうく島を左に見て過ぎ、やがて右方に五島、福田ふくだを経て、夜中に「永崎」を見やりながら通過したようであり、寄港した様子はない(「家久君上京日記」同年七月一八日条)。なお永禄五年(一五六二)以降明人の来航が始まり、元亀二年(一五七一)の長崎町の建設以来その数は増加したとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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