ロドリゲス(読み)ろどりげす(英語表記)João Rodriguez Tçuzu

デジタル大辞泉 「ロドリゲス」の意味・読み・例文・類語

ロドリゲス(João Rodríguez)

[1561~1634]ポルトガルイエズス会宣教師。1577年(天正5)来日。96年司祭。日本語をよくし通訳をつとめ、ツウズ(通事)ロドリゲスとよばれた。豊臣秀吉徳川家康の知遇を得たが、1610年(慶長15)追放された。マカオで没。著「日本大文典」「日本教会史」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ロドリゲス」の意味・読み・例文・類語

ロドリゲス

  1. ( João Rodriguez ジョアン━ )[ 異表記 ] ロドリーゲス ポルトガルのイエズス会宣教師。天正五年(一五七七)頃来日し、入会後、府内のコレジョラテン語、日本語を学び熟達、会計係兼通訳として活躍。慶長一五年(一六一〇)ポルトガル船と幕府との紛争に巻き込まれてマカオに追放された。「日本大文典」を長崎で、「日本小文典」をマカオで刊行。未完の稿本「日本教会史」も文化史的価値が高い。(一五六一‐一六三四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス(Alex Rodriguez)
ろどりげす
Alex Rodriguez
(1975― )

アメリカのプロ野球選手(右投右打)。本名Alexander Emmanuel Rodriguez、愛称はA-Rod(エー・ロッド)。大リーグ(メジャー・リーグ)のシアトル・マリナーズ、テキサス・レンジャーズ、ニューヨーク・ヤンキースで遊撃手、三塁手としてプレー。2002年は遊撃手のシーズン最多記録となるホームラン57本を放ち、03年4月2日のアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)戦においては史上最年少で通算300号を達成した。

 7月27日、ニューヨークで生まれる。ウェストミンスター・クリスチャン高から1993年、ドラフト1巡目(全体1番目)指名を受けてマリナーズに入団、群を抜く打力とマリナーズの人材難から、いきなり1年目の94年に大リーグ昇格を果たした。1996年からレギュラーの座を確保し、打率3割5分8厘、ホームラン36本、打点123をマークして首位打者となった。1997年は故障でホームラン23本にとどまったものの、翌年から6年連続40本以上をマーク、とくに98年は盗塁46個も決めて、ホセ・カンセコJose Canseco(1964― )、バリー・ボンズに次いで史上3人目の40本塁打40盗塁を達成した。2000年を最後にレンジャーズへ移籍したが、その際に10年間で2億5200万ドルという史上最高額で契約を結んだために批判の声も上がった。しかし移籍1年目から本塁打王のタイトルを獲得、さらに2002年には本塁打王と打点王も獲得し、契約金に見合う活躍をみせた。なお同年には初のゴールドグラブ賞に選ばれている。2003年にはホームラン47本で3回目のホームラン王になると同時に初の最優秀選手(MVP)に選出された。2004年2月に交換トレードでヤンキースへ移籍し、三塁手に転向した。2005年6月、大リーグ最年少(29歳10か月)で通算400号に到達した。同年ホームラン48本で4回目のホームラン王に輝き、2回目のMVPにも選ばれている。2006年は攻守にやや精彩を欠き、とくに三塁守備では24失策を記録し、投手陣に負担をかける結果となった。また、ディビジョン・シリーズでは14打数1安打の不振で、一時は放出のうわさもでるほど地元ファンの信頼を失った。

[出村義和]

2007年以降

2007年は4試合のみの欠場で158試合に出場。前年の不調から脱し、打率は3割1分4厘だったものの、ホームラン54本、打点156で打点王と本塁打王の二冠を獲得、3回目のMVPに選ばれた。また、2001年~03年に続き、4回目のハンク・アーロン賞(リーグの最優秀打者に贈られる賞)も受賞した。

 2007年までの通算成績は、出場試合1904、安打2250、打率3割6厘、本塁打518、打点1503。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、最多安打1回、本塁打王5回、打点王2回、MVP3回、ゴールドグラブ賞2回。

[編集部]


ロドリゲス(Ivan Rodriguez)
ろどりげす
Ivan Rodriguez
(1971― )

アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のテキサス・レンジャーズ、フロリダ・マーリンズ、デトロイト・タイガースで捕手としてプレー。毎年トップクラスに入る盗塁阻止率をマークする強肩を誇り、また打率も3割を超え、ファイトあふれるプレーでチームを牽引(けんいん)する「超万能型キャッチャー」として知られる。

 11月30日、プエルト・リコのマナティで生まれる。地元のリナ・パドロン・リベラ高から1988年、ドラフト外でレンジャーズに入団、91年に大リーグへデビューした。翌92年から正捕手として定着し、2001年まで10年連続でゴールドグラブ賞を独占した。打撃は年を経るごとに向上し、1995年に打率3割3厘をマークしてからは、2002年まで8年連続打率3割を超えた。1996年には攻守にわたる活躍でレンジャーズに初の地区優勝をもたらし、99年は打率3割3分2厘、ホームラン35本、打点113、盗塁25の多彩な働きで3回目の優勝に貢献、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。2002年限りでレンジャーズを離れ、ナショナル・リーグのマーリンズへ移籍した。2003年は攻守にわたりチームの中心として活躍、リーグチャンピオンシップ・シリーズではMVPになる大活躍をみせて、マーリンズの6年ぶり2回目のワールド・シリーズ制覇の原動力となった。2004年からはタイガースに移籍し、同年には11回目のゴールドグラブ賞を受賞、05年は12回目のオールスター・ゲーム出場を果たした。2006年は打率3割をマーク、守備も12回目のゴールドグラブ賞に輝く堅守でチームを84年以来のリーグ優勝に導いた。

[出村義和]

2007年以降

2007年は129試合に出場、打撃面では打率2割8分1厘、ホームラン11本、打点63と低調に終わったが、2004年から4年連続オールスター・ゲームに選出され、通算14回目の出場を果たした。守備では13回目のゴールドグラブ賞を受賞した。

 2007年までの通算成績は、出場試合2152、安打2495、打率3割3厘、本塁打288、打点1182。獲得したおもなタイトルは、MVP1回、ゴールドグラブ賞13回。

[編集部]


ロドリゲス(João Rodriguez Tçuzu)
ろどりげす
João Rodriguez Tçuzu
(1561―1634)

イエズス会宣教師。ポルトガルのセルナンセレ生まれ。1577年(天正5)来日し、1580年イエズス会に入会。翌1581年府内のコレジオに入学して哲学、神学を学び、ラテン語を講じた。通辞バテレンとして著名であり、1591年豊臣秀吉(とよとみひでよし)とバリニャーノの会見の際通訳を務めた。1593年(文禄2)上洛(じょうらく)して都(京都)で布教し、翌1594年マカオへ戻って1596年司祭となる。同年日本司教マルティンスPedro Martins(?―1598)に従って長崎に戻り、伏見(ふしみ)にて司教が秀吉に謁見した際、通訳を務めた。1600年(慶長5)徳川家康(とくがわいえやす)と会見して好遇を受け、宣教師の都、大坂、長崎在住の許可を得た。翌1601年日本準管区の会計係となり、1610年にマカオに追放されるまでその任にあたった。1613年に中国内地を旅行して儒教・仏教・道教の研究を行った。著書に最初の日本語の文法書である『日本大文典』(長崎刊)や『日本小文典』(マカオ刊)があり、日本の教会史および日本文化研究書たる『日本教会史』がある。

[宮崎賢太郎 2018年2月16日]


ロドリゲス(Amalia Rodrigues)
ろどりげす
Amalia Rodrigues
(1920―1999)

「ファドの女王」として知られるポルトガルの歌手。貧しい家に生まれ、お針子やオレンジ売りをするなど苦労を重ねたが、サン・アントニオ音楽祭に出場して優勝したのち、1940年に本格的にデビュー。以後ヨーロッパ、南米各地に演奏旅行し、大成功を収めた。54年、フランス映画『過去を持つ愛情』に出演し、そのなかで『暗いはしけ』を歌う。同曲は黒人系のリズムを用いた、ファドとしてはむしろ異色な曲であったが、彼女の名唱によって大ヒットし、ファドを世界的に知らしめるのに貢献した。劇的な力強さと切々とした抒情性の交錯する歌唱により、深味のある表現を行う。『孤独』『暗き宿命(呪い)』『なつかしのリスボン』『難船』『かもめ』『ポルトガルの四月』など知られる。70年(昭和45)大阪万国博覧会に際し初来日。90年ポルトガル共和国最高勲章受章。

[田井竜一]


ロドリゲス(João Rodriguez Giram)
ろどりげす
João Rodriguez Giram
(1558―1629)

イエズス会宣教師。ポルトガルのアルコシェテ生まれ。1577年イエズス会に入会。1583年ゴアで神学を学び司祭となる。1586年(天正14)長崎に着き、豊後(ぶんご)、大村、平戸(ひらど)地方で活躍したのち、1600年(慶長5)都(京都)に派遣された。1603年準管区長および巡察師の秘書となり、1614年のマカオ追放のときまで長崎にあった。1604年から15か年の『イエズス会日本年報』の作成にあたった。マカオにて死去。

[宮崎賢太郎 2018年2月16日]

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改訂新版 世界大百科事典 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス
João Rodriguez
生没年:1561-1634

イエズス会の宣教師。ポルトガル人。1577年に来日,日本語をよくし,通訳として活躍した。ロドリゲスという姓は,ポルトガル人としてきわめてありふれたものであるので,他と区別するため〈ツーズ〉(通事)を添えて〈ツーズ・ロドリゲス〉の名で呼ばれ,よく知られ親しまれた。豊臣秀吉,徳川家康の知遇をうけ,早くから教会側の代弁者として活躍,禁教の時代になってもなお許されて長く滞在したが,1613年ついにマカオに移り,そこで没した。

 著書に長崎版とマカオ版の日本語文法書がある。後者《日本小文典》(1620。《簡約日本文典》ともいう)は前者《日本大文典》(1604-08。単に《日本文典》ともいう)を簡略にしたものであるが,ともに16世紀から17世紀へかけての日本語を詳密に記述していて,今日,日本語の歴史を研究するうえに欠くことのできない文献となっている。《日本大文典》とほぼ同じころ,やはり長崎学林から刊行された《日葡(につぽ)辞書》は,厳密にはロドリゲスの著述ではないが,その編さんはやはり彼と無関係には考えられない。なお,ほかに稿本として《日本教会史》が残されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス
Rodriguez, João Tçuzzu

[生]1561? セルナンセレ
[没]1634? マカオ
ポルトガル出身のイエズス会宣教師,言語学者。天正5 (1577) 年頃 16歳で来日。イエズス会に入り,コレジヨで修学。その語学力を用いて通事 (通訳) をつとめ,豊臣秀吉や徳川家康の知遇を得,対キリシタン政策の緩和や貿易交渉に大きな役割を果した。その著『日本 (大) 文典』 Arte da lingoa de Iapam (3巻1冊本,1604~08) は,当時の標準語文法を詳細に説き,発音や各地の方言その他にも及ぶもので,キリシタンの日本語研究史上の白眉とされる。元和6 (1620) 年にはこれを初学者用に簡約化した『日本小文典』 Arte breve da lingoa Iapoaを著わし,日本語文法を一段と整備体系化した。ほかに稿本として『日本教会史』などがある。なお,同時代に日本イエズス会に同名異人のジョアン・ロドリゲスというポルトガル生れのバテレンがいたので,これと区別するためツーズ Tçuzzu (通事) を添えて呼ばれることがある。

ロドリゲス
Rodríguez, Ventura

[生]1717.7.14. マドリード近郊
[没]1785.8.26. マドリード近郊
スペイン建築家。 F.ユバラに師事。マドリードのサン・マルコス聖堂 (1749~53) の建築によって認められ,以後マドリードを中心に活躍,多くの仕事を残した。最初イタリア・バロック様式に傾倒したが,スペインのロココ様式を発展させた。おもな作品はマドリードのサン・ベルナルド聖堂 (53) ,ブルゴスの議事堂,パンプロナ大聖堂のファサード (83) など。

ロドリゲス
Rodriguez, Girão João

[生]1558
[没]1633. マカオ
ポルトガルのカトリック司祭,イエズス会士。いわゆるバテレンの一人。天正 14 (1586) 年任地インドから来日,豊後,次いで大村領内で布教活動を行なった。慶長8 (1603) 年以後長崎のイエズス会本部で副管区長の書記をつとめ,翌年から『耶蘇会士日本年報』を執筆。同 19年の大追放によりマカオに追放され,同地で没。

ロドリゲス
Rodríguez, Martin

[生]1771
[没]1844
アルゼンチンの軍人,政治家。ブエノスアイレス州の政治指導者。 1806年イギリスの侵攻を防ぎ,10年の独立革命戦争を指導。 20~24年ブエノスアイレス州知事として進歩的政策を行い,のちの国家統一を助けた。

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百科事典マイペディア 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス[島]【ロドリゲス】

インド洋西部の島。モーリシャス領で,その東北東約560kmにある。最高点396mの火山島で,農牧業,漁業が行われる。16世紀末にヨーロッパ人が発見,17世紀末にはフランスのユグノー教徒が移住したが,1814年英領とされた。104km2。3万7922人(2011)。
→関連項目モーリシャス

ロドリゲス

ポルトガルのイエズス会宣教師。漢名陸若漢。1577年来日,通詞として豊臣秀吉,徳川家康に接し布教上の便宜を得,禁教の時代にも滞日を許された。1613年マカオに移り,同地で没。《日本大文典》《日本教会史》などの著作がある。
→関連項目日本料理

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ロドリゲス」の解説

ロドリゲス Rodrigues Tçuzzu, João

1561-1634 ポルトガルの宣教師。
イエズス会の司際。天正(てんしょう)5年(1577)来日,豊後(ぶんご)府内(大分市)のコレジヨでまなぶ。日本語に堪能(たんのう)で,バリニャーノと豊臣秀吉との会見や徳川家康との折衝の際,通訳をつとめツズ(通事)と称した。慶長9年(1604)最初の日本語文法書「日本大文典」を刊行。15年マカオへ追放された。1634年8月1日死去。73歳。

ロドリゲス Rodrigues Giram, João

1558-1629 ポルトガルの宣教師。
イエズス会司祭。天正(てんしょう)14年(1586)来日し,豊後(ぶんご)(大分県),肥前大村,平戸(ともに長崎県)で布教にあたる。慶長8年(1603)日本準管区長秘書。「イエズス会日本年報」を執筆した。19年マカオへ追放され,1629年10月15日同地で死去。71歳。

ロドリゲス Rodrigues Jeronimo

1568-1628 ポルトガルの宣教師。
イエズス会士。慶長5年(1600)来日し,伏見,金沢で布教。のち長崎コレジヨ院長,上(畿内)地区長をつとめる。元和(げんな)3年明石掃部(かもん)の長男パウロ明石内記の逃亡事件に連座し,離日した。1628年7月5日マカオで死去。60歳。

ロドリゲス Rodriguez, Augustin

?-1613 スペインの宣教師。
フランシスコ会司祭。文禄(ぶんろく)3年(1594)マニラ総督使節として来日。慶長2年長崎で二十六聖人殉教事件の際,追放される。7年日本宣教長に任命されて再来日,徳川家康にあい江戸,伏見などの聖堂の使用をゆるされた。9年離日。

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デジタル大辞泉プラス 「ロドリゲス」の解説

ロドリゲス

体操、男子つり輪競技の技。前振り上がり上向き中水平。名称はフランスの体操選手、ダニー・ピネーロ・ロドリゲスから。

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世界大百科事典(旧版)内のロドリゲスの言及

【日本大文典】より

…原題は《Arte da lingoa de Iapam》。イエズス会宣教師ロドリゲスJoão Rodriguez著。3巻1冊。…

【日本料理】より

…室町末期以後になりその基礎がかたまり,江戸後期にいたってそれはほぼ完成の域に達する。ポルトガルの宣教師ロドリゲスが来朝したのは1577年(天正5)であるが,彼は当時の日本で4種類の宴会料理が行われているのを見た。その第1は〈三つの食台の宴会〉,第2は〈五つの食台の宴会〉,第3は〈七つの食台の宴会〉,第4は〈茶を飲むための宴会〉であった。…

※「ロドリゲス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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