鎌倉時代,内裏・院御所諸門の警固番役。鎌倉幕府の御家人役の一つ。内裏大番役,大内大番役とも呼ばれた。鎌倉時代後期の裁判関係の書《沙汰未練書》には〈大番とは内裏警固番役なり〉とあり,大番役といえば普通京都大番役をさす。平安時代中ごろより衛士上番の制に代わる諸国武士の交替勤番制があったとみえ,すでに大番の呼称も用いられている。幕府の成立とともに源頼朝の管掌するところとなり,はじめは御家人たると否とを問わず諸国の武士に勤仕させたようであるが,1192年(建久3)ごろより御家人の所役とし,非御家人を排除して御家人のみに勤仕を令し,荘園領主等との摩擦を回避した。しかし公役としての性格は失われず,おおむね国役として守護の統率下に国単位で勤番している。鎌倉幕府の守護の権限である大犯(だいぼん)三箇条の第1がこの大番催促であった。このため大番役は守護所役ともいわれた。はじめ大番衆として在京中の御家人の統轄は京都守護の任であったが,その力は弱く1221年(承久3)の承久の乱では大番役のため在京中の淡路国御家人が守護佐々木経高の統率下に院方に加担している。また大内(おおうち)守護を世襲した源頼茂も幕府方に通じたとして事前に追討をうけている。このため幕府は乱後,六波羅探題をおいて西国御家人および在京御家人の統制を強化した。以来在京中の大番衆は六波羅探題,守護の統轄下に分番勤番した。また幕府の侍所は大番役全体を統轄し,結番(勤務の順番,期間等の決定),賦課,関係訴訟の取扱い等に当たっている。
勤仕手続はまず数年間にわたる結番表が作成され,それにもとづいて守護および有力御家人の家長あてに指令が出され,それをうけた彼らが管国内の御家人または一族に催促状を発して期日場所を定めて上洛させ,その指揮下に一定期間内裏・院御所諸門の警固のほか,行幸の供奉,行幸先の警固,市中の警備等を勤仕させたのである。期間は6ヵ月ないし3ヵ月で,《承久記》によれば,頼朝が大番役を管掌した際,旧来3年であったのを御家人の負担軽減をはかって短縮したのだという。勤仕終了後,守護等は覆勘状(勤仕終了証明書)を発出したが,それは催促状とともに御家人であることの証拠資料として長く重用された。勤番周期は短くて6年,普通10年あるいは20年と一様ではなく,回数もだいたい,鎌倉時代を通じ国単位で5回程度と思われる。中にはほとんど賦課のない国もあったようである。しかし勤仕の際は長期間の滞在費,往復の旅費等を要し,負担が重かったから,一方では御家人役の随一として重視しながらも,遅参したり,故障を申し立てて免除を願う者も少なくなかった。幕府も罰則を設けるなどして取り締まり,御家人は譲状に記載するなどして惣領庶子間で負担の配分についてあらかじめ定めておくなど特別の配慮を加えている。さらに御家人が農民に負担を転嫁する例も少なくなく,幕府もその負担率を定めその増大の抑止につとめている。このほか諸国御家人の大番役勤仕のための上洛下向に伴い,地方・中央文化の交流が進むなど文化史上の影響も少なくなかった。幕府滅亡後,建武新政権も内裏大番役の制度を設け,諸国武士の勤番も一部実施されたが,新政の崩壊により止み,室町幕府はこの制度を踏襲しなかった。
執筆者:五味 克夫
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