日本歴史地名大系 「長沼庄」の解説
長沼庄
ながぬまのしよう
北は
寛喜二年(一二三〇)八月一三日の長沼宗政譲状(皆川文書)に「下野国長沼庄」とみえ、長沼氏初代の宗政より嫡子時宗に譲られている。なお年未詳の久我家領目録(久我文書)に庄名がみえ、ある時期久我家領であったことが確認されるが詳しいことはわからない。弘安六年(一二八三)三月二七日長沼宗泰(法名覚源、時宗の子)の所領であった庄内の古布嶋郷が後家尼に譲られ、正安元年(一二九九)一二月六日宗泰の譲状どおり、後家が死去した後は宗秀(宗泰の孫)が知行することが確認された(「将軍久明親王家政所下文」園城寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報