日本歴史地名大系 「長法寺村」の解説 長法寺村ちようぼうじむら 三重県:鈴鹿市旧奄芸郡地区長法寺村[現在地名]鈴鹿市長法寺町三宅(みやけ)村の北、中(なか)ノ川の河岸段丘上にあり、背後は台地で、南方に向かって水田が展開する。村名の起源については、承平二年(九三二)千力(ちりき)明神の社僧が天台宗に帰依して長法寺(後の正楽寺)を建てたことによるという。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に「本得末名 長法寺五郎」とあり、東南の徳居(とくすい)村付近に所領をもつ地頭がこの地にいたと推定される。文禄検地帳(徳川林政史蔵)によれば、田畠屋敷合二六町二反一畝二歩、分米三四二・〇五八石、うち二二二石余田方、一一五石余畑方、三石余屋敷方とあり、他村に比べて畠の割合が多いのも台地上の集落であるからである。 長法寺村ちようほうじむら 京都府:長岡京市長法寺村[現在地名]長岡京市長法寺長法寺山山麓と台地部に位置する。長法寺は平安時代開創と伝えるが、村名としての長法寺は康永三年(一三四四)の寂照(じやくしよう)院仁王像胎内文書に所見。六〇名近くの名前が記され、そのなかに「伊予殿」の名があって、土豪の存在を推測させる。江戸時代の石高二二〇石余は、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳では大夫典侍領六二石余、権典侍領三三石余、菅内侍領三三石余、梨木三位知行六〇石、北面衆一三人知行三〇石余に分けられている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報