日本歴史地名大系 「長淵村」の解説 長淵村ながぶちむら 東京都:青梅市長淵村[現在地名]青梅市長渕(ながぶち)千ヶ瀬(ちがせ)村の南、多摩川右岸に位置する。南西方の馬二ッ塚(うまふたつづか)峠を越えると大久野(おおぐの)村(現日の出町)に通じる。西を上長淵、東を下長淵とした(風土記稿)。中世より長淵郷などとみえ、郷内に須高(すだか)村・大沢(おおさわ)村などがあった。慶長一八年(一六一三)二月、新開地の新町(しんまち)村に次男・三男の出百姓を求める幕府代官回状(「仁君開村記」吉野家文書)の宛先に当村名がみえる。田園簿に村名がみえ、田四二石余・畑二九三石余で、幕府領、ほかに山銭永五九〇文、玉泉(ぎよくせん)寺領三石。寛文八年(一六六八)の上長淵村検地帳(青梅市史)では上畑四町三反余・中畑四町五反余・下畑六町五反余・下々畑三町九反余・切畑六町三反余、上田一反余・中田一反余・下田一町余・下々田一町五反余。これは上長淵村の帳面であるが、上長淵村・下長淵村の分立は貞享四年(一六八七)頃ともいう。 長淵村ながふちむら 福岡県:朝倉郡朝倉町長淵村[現在地名]朝倉町長渕(ながふち)入地(いりじ)村の南に位置し、南は筑後川を挟んで筑後国竹野(たけの)郡小田(おだ)村・行徳(ぎようとく)村(現田主丸町)と上寺(かみでら)村。堀(ほり)川が中央部を西流する。古代上座(かみつあさくら)郡長渕郷(和名抄)・中世長淵庄の遺称地。小早川時代の指出前之帳では長淵村の田四反余(分米五石余)・畠六六町四反余(分大豆二七六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高六六九石余、うち大豆六六〇石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高七〇一石余・反別九四町八反余、家数一一五・社一、人数五八九(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一一一(うち酒家一・麹家二)・人数六〇八、牛三・馬七五(別本「続風土記附録」)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by