朝倉町
あさくらまち
面積:三四・五六平方キロ
朝倉郡の南部にあたり、東は杷木町、西から北は甘木市、南は浮羽郡吉井町・田主丸町と接する。筑紫平野の東側に位置し、南部を筑後川が西流する。なお同川の流路変更により町域の一部が対岸にある。北西から南東に国道三八六号が通る。中央には九州自動車道の朝倉インターチェンジがあり、同道は筑後川沿いに日田方面に向かう。主要地方道甘木―朝倉―田主丸線、同朝倉―小石原線と県道福光―朝倉線が接続する。「日本書紀」斉明天皇七年(六六一)八月一日条にみえる朝倉山を当町と杷木町の境の麻底良山一帯に求める説があり、町域内には斉明天皇にかかわる伝承が多く残る。朝倉社・朝倉橘広庭宮の跡地と伝える場所もある(杷木町の→朝倉社 →朝倉橘広庭宮)。「新古今集」が天智天皇の歌とする「朝倉や木の丸殿にわがをれば名のりをしつつ行くはたが子ぞ」にちなむ木の丸殿跡の石碑が山田の筑後川近くに建つ。
朝倉町
あさくらまち
[現在地名]高知市南はりまや町一―二丁目・九反田
弘岡町の北側に並行する両側町。西は南北筋の八百屋町を挟んで要法寺町、東は横堀を挟んで九反田。朝倉村の住民を移して居住させたので、この町名がついた。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西二二〇間、南北四〇間で、家数は二八。
町内にあった真言宗の金剛院は、もと長岡郡滝本村(現南国市)の滝本寺で、慶長年間(一五九六―一六一五)に移されたが、元禄一一年(一六九八)の大火に焼失し、新町に移った。
朝倉町
あさくらちよう
南北に通る富小路通を挟む両側町。
平安京の条坊では、左京四条四坊四保九町の中央部。平安中期以降は、六角富小路の北西の地にあたる。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「しら川や町」、「都すゞめ案内者」で「さくらや町」、寛文後期洛中洛外之絵図に「朝倉町」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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