日本歴史地名大系 「朝倉郡」の解説 朝倉郡あさくらぐん 面積:一九八・六五平方キロ夜須(やす)町・三輪(みわ)町・朝倉(あさくら)町・杷木(はき)町・小石原(こいしわら)村・宝珠山(ほうしゆやま)村明治二九年(一八九六)上座(じようざ)郡・下座(げざ)郡・夜須(やす)郡が合併して成立した郡。現在は中央を甘木市で東西に分断され、西部は夜須町・三輪町の二町、東部は残りの二町・二村で形成される。西部分の北は嘉穂(かほ)郡筑穂(ちくほ)町・嘉穂町、西から南は筑紫野(ちくしの)市と小郡市および三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町、東は甘木市に接する。東部分の北は嘉穂町と田川郡添田(そえだ)町、西は甘木市、南は浮羽(うきは)郡田主丸(たぬしまる)町・吉井(よしい)町・浮羽町、東は大分県日田市に接する。北部は英彦(ひこ)山・古処(こしよ)山地に属する夜須高原、朝倉山塊など、東部は大日(だいにち)ヶ岳(八三九・八メートル)や釈迦(しやか)ヶ岳(八四四・二メートル)の山腹にあたる。南端近くを筑後川が西流し、同川水系の曾根田(そねだ)川・草場(くさば)川・荷原(いないばる)川・桂(かつら)川・大肥(おおひ)川などが筑後川に向かって流れる。西部分の南はほぼ筑紫(ちくし)平野の北端にあたる。東部分の南部は前述の河川などが形成する河岸段丘や扇状地的平野と、筑後川中流域平野からなる。郡名は「日本書紀」斉明天皇七年(六六一)五月九日条にみえる朝倉橘広庭(あさくらのたちばなのひろにわ)宮による。郡成立時には旧夜須郡の甘木町・秋月町ほか八村、旧上座郡の一一村、旧下座郡の五村が属した。明治四一年三根(みね)・中津屋(なかつや)・夜須の三ヵ村が合併して夜須村が誕生。続いて大三輪(おおみわ)・栗田(くりだ)の二ヵ村が合併し三輪村となった。翌四二年福成(ふくなり)と大庭(おおば)の二ヵ村が合併して大福(だいふく)村となる。大正一二年(一九二三)郡制廃止。昭和一四年(一九三九)杷木村が町制を施行。同二二年夜須村の桑曲(くわまがり)を嘉穂郡内野(うちの)村(現筑穂町)へ編入。同二六年杷木町は松末(ますえ)・久喜宮(くぐみや)・志波(しわ)の三ヵ村を合併。同二九年郡の中心に位置している甘木・秋月の二町と安川(やすかわ)・上秋月・立石(たていし)・福田(ふくだ)・馬田(まだ)・蜷城(ひなしろ)・三奈木(みなぎ)・金川(かながわ)の八ヵ村が合併して甘木市が成立、翌三〇年同市は高木(たかぎ)村を合併した。同年朝倉村と宮野(みやの)・大福の二ヵ村が合併して朝倉村となる。同三七年夜須・朝倉・三輪の三ヵ村が町制を施行、現在の四町・二村となる。明治四一年朝倉軌道が甘木―二日市(ふつかいち)(現筑紫野市)間を完成させ開業。同四五年甘木から恵蘇宿(えそのしゆく)(現朝倉町)まで路線を延ばし、大正一一年には杷木まで再延長した(昭和一六年廃止)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by