長走村(読み)ながはしりむら

日本歴史地名大系 「長走村」の解説

長走村
ながはしりむら

[現在地名]大館市長走

南流する下内しもない川上流域の山間部に位置し、羽州街道に沿う秋田藩最北の村。北の矢立やだて峠で弘前藩領碇関いかりがせき(現青森県南津軽郡碇ヶ関村)と接する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「先年白沢村支郷に候処寛文十二子年別村に被成申候」とみえ、家数二二で、支郷に戸数九の陣場台じんばだい村があった。以降の村勢は寛政一二年(一八〇〇)三一戸、一五五人、安政四年(一八五七)二四戸、一二八人、同七年二九戸、一一八人(大館市史)

弘前藩境に位置し、「郷村史略」に「矢立峠迄一り廿四丁四十八間と云 道中川を渉る事二十度 舟橋なし 難路の往還なり」と伝える。

長走村
ながはしりむら

[現在地名]浦川原村長走

保倉ほくら川左岸にあり、西は桜島さくらしま村、東は菱田ひしだ村。保倉川左岸沿いの道が通り、対岸日向ひなた村との往来のための渡場があった。永禄元年(一五五八)から天正一八年(一五九〇)のものと思われる七月一五日の下間頼龍書状(村松正樹氏蔵)に「中走村三郎左衛門」とみえ、当村の三郎左衛門が近隣の惣中門徒から集めた懇志を、本願寺宗主へ献上披露している。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所窪田扱なかはしり村 上」とあり、本納七六石一斗四升二合・縄高一七四石五斗八升四合、家五軒・一五人。

長走村
ながしりむら

[現在地名]大沢野町長走

大沢野最下位段丘の神通川縁に位置し、北は稲代いなしろ村、東は春日かすが村。加賀藩領から万治三年(一六六〇)以降富山藩領。正保郷帳では高一二石余、田方一反余・畑方七反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一八石、免四ツ。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高九石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高九石余・定免三ツ八歩、新田高八斗・免一ツ、小物成として野役一匁二分、鱒・鮭・鮎川役各一匁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報