国指定史跡ガイド 「関ヶ原古戦場」の解説
せきがはらこせんじょう【関ヶ原古戦場】
岐阜県不破(ふわ)郡関ケ原町一帯にある戦場跡。指定名称は「関ヶ原古戦場 附徳川家康最初陣地(つけたりとくがわいえやすさいしょのじんち) 徳川家康最後陣地(とくがわいえやすさいごのじんち) 石田三成陣地(いしだみつなりじんち) 岡山烽火場(おかやまのろしば) 大谷吉隆墓(おおたによしたかはか) 東首塚(ひがしくびづか) 西首塚(にしくびづか)」。関ヶ原古戦場は、安土桃山時代の1600年(慶長5)9月15日に、美濃国の関ヶ原を主戦場として行われた天下分け目の激戦地跡である。関ヶ原における決戦を中心に全国で戦闘が行われ、徳川家康の覇権を決定づけた。戦いの午前中の戦況は、西軍の石田三成(みつなり)、小西行長(ゆきなが)、宇喜多(うきた)秀家、大谷吉継(よしつぐ)(吉隆)隊の3万5000余の軍勢が東軍を圧倒していたが、戦況不利とみた家康が西軍の小早川(こばやかわ)秀秋を威嚇(いかく)して、小早川が東軍に寝返ったことから東軍が逆転勝利した。徳川家康は最初の陣地を桃配(ももくばり)山に置いたが、最後陣地は陣場野(じんばの)に位置し、合戦たけなわになると家康が桃配山から軍を進めて最後まで指揮をとった。また、戦いが終わると部下が取ってきた首を実検したところで、まわりの土囲いや中央の刑場は1841年(天保12)の幕命により、この地の領主だった竹中家が造ったものである。石田三成陣地は笹尾山に位置し、西軍大将の三成が陣を置いた場所で、現在は竹矢来(たけやらい)などが組まれている。岡山烽火場は、別名、丸山ともいい、合戦の際に東軍が烽火をあげた場所で、また、東軍の黒田長政と竹中重門(しげかど)が布陣した地でもあり、石碑がある。大谷吉隆墓は、盲目の軍師、大谷吉隆が石田三成の懇請により中山道を押さえていたが、合戦半ばに小早川らの裏切りにより、ついに自刃した。そのため戦後まもなく、藤堂家が五輪塔を建立して供養した。東首塚と西首塚は陣場野にあり、部下が取ってきた首を家康が実検して東と西の2ヵ所に埋めたところである。JR東海道本線関ヶ原駅下車。