関街道
せきかいどう
下野国中東部を北上し、奥州へ抜ける道で、江戸時代には奥州街道の東側を並行して北上する脇街道の役を果したが、道筋が明確に定められていたわけではない。慶安四年(一六五一)の「下野一国」は、下野国内の各種の道筋を書上げ、大道は五街道とそれに準ずる道を示し、中道はそれに準じるものとしている。そのなかに真岡―烏山―小川―佐良土(現那須郡湯津上村)―伊王野(現那須郡那須町)と、宇都宮―烏山―黒羽―奥州の道が挙げられ、この二筋が関街道に相当する。このほかに真岡の諸河岸から赤羽(現芳賀郡芳賀町)を経由して烏山へ結ぶ道も関街道とよばれた。元禄八年(一六九五)奥州送りの荷物について、奥州街道と関街道との間で争論が起こっている(「板戸河岸他十か村訴状」印南敬二郎文書など)。関街道の側は自らの道筋を「関道」といっている。連名しているのは、鬼怒川の板戸河岸(現宇都宮市)、石末村(現塩谷郡高根沢町)、鴻野山村(現那須郡南那須町)、鹿子畑村(現塩谷郡喜連川町)、福原村(現大田原市)、蛭田村(現湯津上村)、余瀬村・黒羽村・寒井村(現那須郡黒羽町)、伊王野村・蓑沢村(現那須町)である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の関街道の言及
【奥州道中】より
…江戸後期から北方問題が起こると公用通行が増加し,そのため宿と助郷との間に争論が起こった。また東方の関街道(芦野,黒羽,烏山,板戸河岸)や西方の原街道(白河,黒川,高久,平沢,阿久津河岸)との間では,商品荷物の輸送で,たびたび争いを起こしている。【波田野 富信】。…
※「関街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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