阿志岐村(読み)あしきむら

日本歴史地名大系 「阿志岐村」の解説

阿志岐村
あしきむら

[現在地名]久留米市山川町やまかわまち山川安居野やまかわあいの一―三丁目・山川野口町やまかわのぐちまち山川追分やまかわおいわけ一―二丁目・山川市やまかわいち上町うえまち

神代くましろ村の東、高良こうら山の北西に位置し、西は府中ふちゆう町に接する。大島ううしま遺跡は「筑後将士軍談」に記された銅矛(実は細形銅剣)の出土地で、弥生時代前期の土坑・土器も出ている。七曲山ななまがりやま古墳群は四世紀末―五世紀前半代の五基の古墳からなる。前田まえだ遺跡では天武天皇七年(六七八)の筑紫大地震(「日本書紀」同年一二月条)を示す追分活断層線上の段差が確認された。天慶七年(九四四)四月二二日の筑後国神名帳(高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)に「阿志支神」とあるのは当地の祭祀と考えられる。文保二年(一三一八)九月の玉垂宮獅子勾当薬師房重陳状案(梅津文書/鎌倉遺文三五)に「高良王子阿志岐社大宮司」とみえる。観応三年(一三五二)上津荒木五郎次郎入道に「阿志岐村」内一町(泉又太郎跡)などの地頭職が宛行われている(同年閏二月一一日「足利直冬宛行状」草野文書/南北朝遺文(九州編)三)

阿志岐村
あしきむら

[現在地名]筑紫野市阿志岐

牛島うしじま村・天山あまやま村の北、ほぼ南へ流れる宝満ほうまん川流域にある。東に宮地みやじ(天山)がそびえる。北西は宰府さいふ(現太宰府市)北東油須原ゆすばる村の米山こめのやま(米ノ山峠)を越えて穂波ほなみ山口やまぐち(現筑穂町)へ向かう道、野山を越えて宰府村に出る六本松越の道が通っていた(続風土記拾遺)。「万葉集」巻四の天平二年(七三〇)一一月、大宰帥大伴旅人が詠んだ歌などにみえる「蘆城駅家」は当地付近に比定される。また同書巻八には「大宰の諸卿大夫と官人等と筑前国の蘆城の駅家に宴する歌二首」として、作者不詳の「女郎花秋萩まじる蘆城野は今日を始めて万代に見む」「珠匣蘆城の川を今日見ては万代までに忘らえめやも」を載せ、同書巻一二には「悪木山木末ことごと明日よりは靡きてありこそ妹があたり見む」の一首を載せる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報