日田街道(読み)ひたかいどう

日本歴史地名大系 「日田街道」の解説

日田街道
ひたかいどう

豊後国日田に至る街道。本項目では、(一)筑前国福岡・博多から二日市ふつかいち(現筑紫野市)や甘木などを経て日田に向かう道、(二)福岡・博多から篠栗ささぐり街道経由で、飯塚から日田へ向かう道、(三)筑後国久留米からほぼ東進して日田に向かう道について述べる。

(一)福岡・博多から日田を結ぶ道の途中には二日市―宰府さいふ(現太宰府市)―甘木―志波しわ(現杷木町)久喜宮くぐみや(現同上)の宿駅があった(明和元年「御国中宿駅人馬賃銭増一件」山田家文書)。慶長筑前国絵図・元禄筑前国絵図にもほぼ同じ道が描かれる。別名として宰府海道・福岡街道・筑前街道などがある。この道の前身は海外への窓口博多と北部九州の内陸部を結ぶ道として古代から盛んに利用された。中世末期には豊後国の大友氏が博多の支配権をめぐり軍勢を動かした道でもある。慶長五年(一六〇〇)黒田長政が筑前に入国してからは福岡藩領を通る道で、元和九年(一六二三)の秋月藩分封後は一部が同藩領を通るようになる。この道は筑前と豊後を結ぶ幹線であった。江戸時代の豊後国日田郡はおおむね幕府領で、陣屋廻じんやまわり(現大分県日田市)日田代官(郡代)が置かれ、代官や幕吏がこの道を利用して各地の幕府領へ向かった。それと同時にこの道は唐津街道や長崎街道・秋月街道を相互に結び付ける役割をもっていた。福岡藩主が肥前長崎警備のために福岡からこの道を利用して長崎街道の原田はるだ宿(現筑紫野市)へ向かったり、秋月藩主が参勤交代の途上に、福岡へ立寄るために度々通行したりした(「長崎御帰路達諸口出夫并役割出方割帳」竹森家文書、「秋城年譜」秋月郷土館蔵)。文政八年(一八二五)から鹿児島藩主は参勤交代にそれまで利用していた長崎街道に代わり、薩摩街道―日田街道―唐津街道のルートを通行するようになった(天保五年「薩摩中将様御参府達諸事留書」竹森家文書)。さらにこの道は太宰府天満宮参詣の道でもあり、大名・幕臣から庶民に至るまで多くの人々が旅の途中で天満宮を目指した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「日田街道」の解説

日田街道

(福岡県朝倉郡筑前町ほか)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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