朝日日本歴史人物事典 「阿部重次」の解説
阿部重次
生年:慶長3(1598)
江戸前期の近習出頭人,老中,武蔵岩槻藩(岩槻市)藩主。山城守,対馬守。阿部正次の次男。母は佐原義成の娘。始め三浦重成の養子となり徳川秀忠に仕え,近習などを歴任。寛永5(1628)年兄の死去で阿部に復す。のち家光に仕え,同9年小性組番頭。翌10年松平信綱や従弟の阿部忠秋らと,六人衆に任命され,近習出頭人として家光政権の中核となり幕政に参画。同年,家光の弟徳川忠長が幽閉されていた上野高崎にしばしば派遣され,忠長を自殺に追い込む。同15年岩槻城主,所領5万9000石。同年11月老中。慶安1(1648)年7月父の遺領を合わせ9万9000石。同4年家光の死去に伴い殉死。華々しい活躍はなかったが,家光政権を内から支え,最後まで家光に尽くした。<参考文献>『岩槻市史』藩政史料上下,『埼玉県史』通史編3
(根岸茂夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報