阿野・阿野庄
あの・あののしよう
現沼津市西部から富士市東部にかけて、浮島ヶ原を挟み、北部の愛鷹山南麓と南部の海岸砂洲により構成される地域は古代から阿野とよばれていたと考えられる。一帯は中世には阿野庄とよばれ、現在の沼津市東原・柳沢・青野・井出・石川・原・大塚、富士市船津などがその庄域に含まれた。なお阿野は安野などとも書き、また「安野郡」と記す史料もある。
「万葉集」巻一四の雑歌(未勘国部)に「草蔭の安努な行かむと墾りし道阿努は行かずて荒草立ちぬ」の一首が載る。この安努・阿努を伊勢国安濃郡にあてる説もあるが、巻一四は全巻を通じて東歌なので当地とみる説が有力である。源頼朝の異母弟(幼名今若)は頼朝の挙兵に応じて東下、のち当地に住して阿野全成と名乗った。全成は建仁三年(一二〇三)謀反の嫌疑で将軍源頼家に討たれた。全成の子阿野冠者時元も同じく陰謀のかどで、建保七年(一二一九、承久元年)二月二二日に「駿河国安野郡」に発向した幕府軍によって一族ともども討たれている(「吾妻鏡」承久元年二月一五日・一九日・二二日条など)。井出にある曹洞宗大泉寺は阿野氏の居館跡とされており、鎌倉初期には阿野氏が同所を拠点に阿野を支配していたと思われる。
建武三年(一三三六)一二月、長寿寺は「駿河国安野船津郷内寺田畠拾陸町余」などの「領主職」の安堵を朝廷に求めている(「長寿寺雑掌元道申状案」田中繁三氏所蔵文書)。応永二〇年(一四一三)六月一五日室町幕府は京都建仁寺永源庵に対し「末寺駿河国阿野庄長寿寺、付寺領等」を安堵している(「管領細川満元奉書写」永源師檀紀年録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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