日本歴史地名大系 「隈村」の解説 隈村くまむら 福岡県:筑紫野市隈村[現在地名]筑紫野市隈・光(ひかり)が丘(おか)一―五丁目若江(わかえ)村の南、南東流する宝満(ほうまん)川右岸にある。南は筑後国三原(みはら)郡津古(つこ)村(現小郡市)。永正一四年(一五一七)三月二六日の筑紫百宝子丸坪付注文(筑紫古文書/嘉穂地方史古代中世篇)には、三笠(みかさ)郡の「一所隈拾二町」が筑紫氏の所領としてみえる。いっぽう大永六年(一五二六)一二月一三日の大内氏奉行人連署書状(満盛院文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)によれば、前年以来満盛(まんじよう)院(現太宰府市)から同院領の「隈村拾弐町」が筑紫秀門の違乱を受けているとたびたび愁訴があったのを受けて、同所の還付が筑前守護大内氏によって命じられている。同日付の立石尚安書状(同上)では秀門は隈村還付に納得していたが、後室が依然として違乱していたことから還付が当時にまで延引していたという。 隈村くまむら 福岡県:浮羽郡田主丸町隈村[現在地名]田主丸町中尾(なかお)平(たいら)村の東に位置する。上三郡絵図では山辺(やまべ)往還沿いに屋敷地・耕地が描かれ、耳納(みのう)山地には当村内として竹尾(たけのお)山・伊勢尾(いせのお)・御立雑木山・御立藪が記される。文亀二年(一五〇二)三月三日の大友親治宛行状案(草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)によると、草野中務少輔(重永)の本新望の地の一つに「隈大力」一六町があり、永正五年(一五〇八)一一月三日に草野太郎(興秀)に安堵された(「草野興秀知行目録案」同上)。「大力」は現竹野(たけの)に小字として残る。 隈村くまむら 福岡県:大牟田市隈村[現在地名]大牟田市宮崎(みやざき)倉永(くらなが)村の東、北西流する隈川右岸にある。北は楠田(くすだ)村(現高田町)。東側はほぼ山林で、西側の隈川沿いに沖積地がみられる。文禄四年(一五九五)の知行方目録に隈村とあり、高二四八石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by