デジタル大辞泉
「大牟田市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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大牟田市
おおむたし
面積:八一・五五平方キロ
県の最南端に位置し、北は三池郡高田町、東は熊本県玉名郡南関町、南は同県荒尾市と接し、西は有明海に臨む。山地は南関町との境に標高三八八・一メートルの三池山があるほかは、北部の甘木山(甘木公園)、中央部の高取山、南部の片平山(延命公園)、荒尾市境の四ッ山などいずれも古生層ないし第三紀層の丘陵である。河川は北から隈川・白銀川・堂面川・大牟田川・諏訪川などの小河川がいずれも西流して有明海に注ぎ、それぞれ流域に小平野を伴う。鉄道はJR鹿児島本線と西鉄天神大牟田本線がほぼ南北に縦断し、並行して国道二〇八号が通る。南西端に三池港がある。文明年間(一四六九―八七)に稲荷の伝治左衛門が稲荷山で発見したという「燃える石」が起源とされる三池炭田は、明治二二年以降三井三池炭鉱(平成九年閉山)として発展した。
〔原始・古代〕
有明海に面する旧三池郡域では旧石器時代の確実な遺跡は未発見であるが、縄文時代早期・前期の遺物は各所で出土しており、草木の羽山遺跡では落し穴遺構が発見された。縄文中期・後期の遺跡としては貝塚の分布が知られ、高田町下楠田の二川貝塚、倉永の荒田比貝塚は著名である。白銀川上流域に立地する上内高頭遺跡では縄文晩期の遺物が出土している。弥生時代の遺跡では中期に形成された甕棺墓を主体とする集団墓地である草木の羽山台遺跡が支石墓が所在することで知られ、それとほぼ時期が重なる集落遺跡として田隈柿添遺跡・田隈石仏遺跡がある。中期の甕棺墓地が発見された久福木立山遺跡には中期―後期に集落が営まれており、宮部遺跡でも後期の集落跡が調査されている。古墳時代には旧三池郡北部と南部で系統的に首長墓が営まれている。北部では前期に竪穴式石室をもつ高田町田尻の辺良田古墳、割竹型木棺が直葬された倉永茶臼塚二号墳(円墳)、箱式石棺の倉永茶臼塚三号墳(円墳)、岬の黒崎観世音塚古墳が築かれている。中期には舟形石棺の分布が顕著となり、高田町上楠田の石神山古墳(国指定史跡・前方後円墳)、倉永茶臼塚一号墳(円墳)、岬の蜜柑山古墳・高塚古墳・黒崎古墳、石櫃山古墳(円墳)で出土している。また県指定文化財となっている石甲は稲荷町にあった弥平山古墳で出土したと伝えられる。後期の古墳としては大規模な横穴式石室をもち三累環頭柄頭などを出土した高田町下楠田の東濃施古墳(円墳)がある。南部では諏訪川を挟んで筑後側(右岸)と肥後側(左岸)の両岸にわたって系統的に古墳が築かれ、筑後側のものは前期に築造された黄金町の潜塚古墳、箱式石棺が埋葬主体である米生町の権現堂古墳(円墳)や昭和町にある中期の宅ヶ峰古墳、東萩尾町にある後期の装飾古墳である萩ノ尾古墳(国指定史跡・円墳)がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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大牟田〔市〕
おおむた
福岡県南西端,有明海に面する市。1917年市制。1929年三川町,1941年駛馬町,三池町,玉川村,銀水村を編入。明治期以前は半農半漁の一寒村であったが,1873年三池炭鉱が官営となってから発展を始め,のち民営となると大鉱業地帯に成長した。三池港は干満の差が大きく,外洋貨物船が横づけできなかったため,1908年閘門式人工港を完成し,石炭積出港に加え工業港としても発展した。第1次世界大戦以後,三池炭を原料とする石炭化学コンビナートが建設され,工業薬品,染料,亜鉛のほか,肥料,セメント,合成樹脂なども生産し,県南随一の鉱工業都市となった。1950年代のエネルギー革命による石炭産業合理化に伴い,1959年には三池争議が起こって多数の炭鉱離職者を出した。三池炭田は大争議後も日本有数の炭鉱として存続したが,1997年に閉山。中心市街地大牟田は低地帯に発展し,熊本県荒尾市と市街地を形成している。有明海岸は漁業やノリの養殖が盛んで,特にノリは日本有数の生産地。市街地の沖合いには人工島の初島がある。多くの景勝地に恵まれ,サクラの名所甘木山公園,延命公園のほか,諏訪川上流域の装飾古墳の萩ノ尾古墳,潜塚古墳(くぐりづかこふん。いずれも国の史跡)などがある。市域の一部は矢部川県立自然公園に属する。2015年三池炭鉱と三池港が世界遺産の文化遺産に登録された。JR鹿児島本線,西日本鉄道大牟田線のほか国道208号線,389号線が通じる。面積 81.45km2。人口 11万1281(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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