日本大百科全書(ニッポニカ) 「龍造寺氏」の意味・わかりやすい解説
龍造寺氏
りゅうぞうじうじ
肥前佐賀を中心に鎌倉~安土桃山(あづちももやま)時代に勢力を有した豪族。先祖は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔(こうえい)で、5代の佐藤公清(きんきよ)の子季清(すえきよ)が1154年(久寿1)に監使として下向し、佐嘉郡小津郷龍造寺(佐賀市)に居住したことに始まる。季清は高木季綱の二男季家を養子とし、この季家が1186年(文治2)肥前龍造寺村の地頭職(じとうしき)を得て龍造寺氏を称した。その後、筑前国(ちくぜんのくに)早良(さわら)郡北伊郷(福岡市)、筑後国(ちくごのくに)三潴(みずま)郡荒木村(福岡県久留米(くるめ)市三潴町)の地頭に補せられた。南北朝時代には足利尊氏(あしかがたかうじ)に属し、のち少弐(しょうに)氏に属し、また大内(おおうち)氏の配下になった時期もあった。戦国時代に支族水ヶ江(みずがえ)城主龍造寺家兼(剛忠)のとき勢力を挽回(ばんかい)、その曽孫(そうそん)隆信(たかのぶ)は、本宗家を継ぎ、1559年(永禄2)少弐氏を破り、しだいに勢力を肥前から筑後、肥後(ひご)に拡大し、戦国大名となった。しかし隆信は1584年(天正12)有馬(ありま)氏攻撃のとき島原森ヶ岳城にて敗死。その子政家は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)より肥前一国(35万石)を安堵(あんど)されたが、病弱のため1590年重臣鍋島直茂(なべしまなおしげ)に所領を譲り隠退、5000石余の隠居料を受けた。そのため佐賀一国の支配権はしだいに鍋島氏の手に移ったので、政家の子高房は鍋島氏への抗議の意味を含め1607年(慶長12)9月6日自殺した。ここに龍造寺本家は絶家したが、この自殺は後世、佐賀御家騒動(化け猫騒動)の因ともなった。
[森山恒雄]