改訂新版 世界大百科事典 「革新俱楽部」の意味・わかりやすい解説
革新俱楽部 (かくしんクラブ)
大正時代の自由主義的政治クラブ。大正デモクラシー運動が高まるなかで,普通選挙の即時実施などの政治革新を主張する立憲国民党が中心となり,無所属俱楽部や憲政会脱党組(急進的普選派)などの代議士45名により,1922年(大正11)11月8日に結成された。結成宣言では,天下民衆との握手,現状打破,党弊刷新を表明した。党議決定による構成員の拘束を廃止し,党首を置かず,自由な革新的政治クラブであることを建前としたが,事実上の党首は犬養毅であった。現役代議士の職業別構成をみると,弁護士や自由業という新中間層に属する者が多いのに対し,会社重役の比重が相対的に低く,長らく官吏や軍人であった者が1人もいないところに特徴があり,彼らの80%は専門学校または大学の卒業生であった。革新俱楽部は旧国民党系議員を中心とする犬養らの右派議員を指導者とし,都市の中小資本家,中小地主,農民,小ブルジョア・インテリゲンチャなどを下部の会員としており,女性も参加していたが,労働者のなかに組織を拡大しようとしなかったところに俱楽部の中間政党的性格が示されていた。具体的には普通選挙と政党内閣制の樹立,軍部大臣現役制廃止,陸軍の師団半減と海軍縮小,枢密院と貴族院の改革,文官任用令改正,知事公選制の実現と市町村の自治権拡大,行財政整理,地租と営業税の廃止,労働問題と小作問題の立法による解決,ソ連邦承認,米・ソとドイツ・オーストリア側旧同盟国の国際連盟への加盟などを主張し,議会内の最左派として民本主義的風潮を議会に部分的に反映させる役割を果たした。憲政会,立憲政友会とともに第2次護憲運動を指導し,政党政治の確立に成功したが,憲政・政友両党の挟撃にあって党勢拡大に失敗し,25年5月14日犬養らの右派は政友会と合流し,尾崎行雄,清瀬一郎らの左派は5月30日に中正俱楽部などと合流して新正俱楽部を結成した。
執筆者:木坂 順一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報