尾崎行雄(読み)おざきゆきお

精選版 日本国語大辞典 「尾崎行雄」の意味・読み・例文・類語

おざき‐ゆきお【尾崎行雄】

政治家。相模(神奈川県)生まれ。号は咢堂(がくどう)・卆翁(くじゅうおう)新聞記者を経て第一回選挙から衆議院議員連続当選二五回。文相、東京市長、法相を歴任。立憲政治の擁護につくし、「憲政の神様」といわれた。安政六~昭和二九年(一八五九‐一九五四

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デジタル大辞泉 「尾崎行雄」の意味・読み・例文・類語

おざき‐ゆきお〔をざきゆきを〕【尾崎行雄】

[1858~1954]政治家。神奈川の生まれ。号、咢堂がくどう。明治15年(1882)立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年(1913)の第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾崎行雄」の意味・わかりやすい解説

尾崎行雄
おざきゆきお
(1858―1954)

政治家。戸籍上は安政(あんせい)6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清(にっしん)戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣では外務省参事官、第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文(いとうひろぶみ)の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎(かつらたろう)内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が倒れると、国民党の犬養毅(いぬかいつよし)とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。

 第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部(くらぶ)に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一(たなかぎいち)内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機(とうじょうひでき)首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。また長年の同志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され有罪判決を受けるが、1944年の大審院では無罪となった。第二次世界大戦後は、戦時中の姿勢ゆえに時代の脚光を浴び、国会では長老的存在として発言した。昭和29年10月6日死去。

[北河賢三]

『伊佐秀雄著『尾崎行雄』(1960・吉川弘文館)』『『尾崎咢堂全集』全12巻(1955~1956・公論社)』『西川圭三著『咢堂・尾崎行雄の生涯』(2009・論創社)』


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百科事典マイペディア 「尾崎行雄」の意味・わかりやすい解説

尾崎行雄【おざきゆきお】

政治家。号は咢堂(がくどう)。相模(さがみ)国津久井郡の出身。〈憲政の神様〉といわれ,一貫した政党政治の擁護者。慶応義塾に学び,1882年立憲改進党に参加。1887年の三大事件建白運動では保安条例により東京追放。1890年第1回総選挙で三重県から当選,以来25回連続当選を記録。1903年―1912年まで東京市長。1900年政友会に参加。1913年第1次憲政擁護運動の先頭に立ち,政友会を脱党。第2次大隈重信内閣の法相となり1916年憲政会に属したが,すぐに離党,以後無所属で普選運動,第2次憲政擁護運動にも活躍。昭和期には反軍的と目され,戦時下には田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙を批判して不敬罪に問われたが無罪。戦後は国会の長老格であったが,1953年の選挙で落選,引退した。国会は名誉議員の称号を贈った。1960年国会前に尾崎記念館(衆議院憲政記念館)が建てられた。
→関連項目大隈重信内閣革新倶楽部共和演説事件護憲運動朝野新聞ポトマック[川]

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改訂新版 世界大百科事典 「尾崎行雄」の意味・わかりやすい解説

尾崎行雄 (おざきゆきお)
生没年:1859-1954(安政6-昭和29)

日本近代の代表的自由主義政治家。号は咢堂。相模国又野村(現,神奈川県相模原市)出身。慶応義塾中退後新聞記者となり,1882年立憲改進党創立に参画。87年の三大事件建白運動では,保安条例による東京退去処分を受けた。90年第1回総選挙に三重県から当選,以後25回連続当選,代議士生活63年。98年大隈重信内閣の文相となったが,日本に共和制を想定した演説が不敬と非難されて辞職。1900年立憲政友会の創立に参加。03-12年東京市長。13年第1次護憲運動には犬養毅とともに桂太郎内閣打倒の陣頭に立ち〈護憲の神〉とうたわれた。桂内閣打倒後政友会の山本権兵衛内閣支持に抗議して脱党,中正会を結成。14年大隈内閣の法相に就任,16年憲政会に加わる。第1次世界大戦後いちはやく普通選挙運動の先頭に立ち,労働者のデモに加わり,憲政会幹部と対立。21年脱党,翌年革新俱楽部に加わる。一方ワシントン会議に先立ち軍備縮小同志会をおこし,吉野作造らとともに熱心に遊説した。25年治安維持法制定に最後まで反対。同年革新俱楽部解体後は無所属となった。以後政治的孤立の中で軍国主義化に反対,戦時下の43年翼賛選挙を攻撃,不敬罪で告発されたが翌年大審院で無罪となった。戦後は国会の長老格であったが,53年の総選挙で落選し政界を引退,国会から名誉議員の称号を贈られた。60年,その憲政に対する貢献をたたえ,尾崎記念館(現在は衆議院憲政記念館)が国会前に建設された。《尾崎咢堂全集》全12巻(1955-56)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾崎行雄」の意味・わかりやすい解説

尾崎行雄
おざきゆきお

[生]安政5(1858).11.20. 相模,又野
[没]1954.10.6. 神奈川,逗子
明治,大正,昭和の3代にわたる政党政治家。号は学堂のち咢堂。 1876年慶應義塾中退。 1879~91年,福沢諭吉の推薦により『新潟新聞』主筆,のち,大隈重信に招かれ 1881年統計院権少書記官。いわゆる「明治十四年の政変」により下野。 1882年大隈系の『郵便報知新聞』に入った。同 1882年大隈の立憲改進党に入党。 1884年『報知新聞』特派員として中国に渡る。 1885年東京府議会議員。 1890年第1回衆議院議員総選挙に三重県から立候補し当選。 1896年外務省参事官。 1898年隈板内閣の文部大臣となったが,帝国教育会でのいわゆる共和演説により,同年辞職。 1900年伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加した。 1903年東京市長,1911年外債により私営電車を買収,東京市電の経営を始めた。翌 1912年サクラの苗木 3000本をワシントン D.C.に贈呈したことはよく知られている。また 1914年大隈内閣の司法大臣に就任。進歩党総務,憲政会筆頭総務をも務めた。 25年目と 50年目に永年在職議員として衆議院院議表彰,憲政功労年金,衆議院名誉議員の称号を受けた。当選回数 25回。日本軍国主義時代に軍と妥協せず,そのため太平洋戦争中,東条内閣により翼賛選挙で不敬罪として起訴されたが無罪となった。第2次世界大戦後は平和運動家として世界連邦制の確立のため努力した。

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朝日日本歴史人物事典 「尾崎行雄」の解説

尾崎行雄

没年:昭和29.10.6(1954)
生年:安政5.11.20(1858.12.24)
国家主義自由主義的政党政治家。号は咢堂。相模国(神奈川県)生まれ。父行正,母貞子。慶応義塾などに学び,文才を認められて新聞記者になったが,明治14(1881)年大隈重信の招きで統計院権少書記官に任官,同年いわゆる明治14年政変で退官。15年『郵便報知新聞』論説記者となり,立憲改進党の結成にも参画。以後改進党系のジャーナリスト,政治家として活躍。21年欧米遊学。23年第1回総選挙に三重県から当選,以後昭和27(1952)年の総選挙まで25回連続当選した。藩閥政府攻撃の急先鋒であったが,明治29年第2次松方内閣で外務省勅任参事官,31年憲政党総務,同年同党を基礎に成立した隈板内閣に文相として入閣。共和演説事件で辞任。33年伊藤博文の立憲政友会結成に参画し,最高幹部のひとりとなったが,のち脱党。36年東京市長に推され,45年まで在職。その間政友会に復党,大正1(1912)年の憲政擁護運動で,国民党の犬養毅と運動を指導し,「憲政の神様」と称された。のち政友会脱党,3年第2次大隈内閣に法相として入閣。憲政会結成で筆頭総務となったが,普選即行論で10年除名され,軍備縮小論を主張して遊説した。革新倶楽部に属したが,14年以降おおむね無所属として,政党の腐敗,軍部の台頭,全体主義的傾向への批判を続けた。昭和16年翼賛運動を批判し,鳩山一郎らと同交会を結成。17年翼賛選挙の際の演説で不敬罪で起訴されたが,19年無罪判決。戦後は,世界連邦建設を提唱。28年選挙で初めて落選。翌年死去。多くの著作などは『尾崎咢堂全集』12巻に収められている。

(伊藤隆)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾崎行雄」の解説

尾崎行雄
おざきゆきお

1858.11.20~1954.10.6

明治~昭和期の政党政治家。号は咢堂(がくどう)。相模国生れ。慶応義塾中退。明治14年の政変で統計院を退官し,立憲改進党結成に参画。大同団結運動にも参加し,保安条例で東京を追放される。第1回総選挙から衆議院議員に25回連続当選。第1次大隈内閣で文相となるが共和演説事件で辞任。立憲政友会に憲政本党からただ1人参加。1903年(明治36)から東京市長。第1次護憲運動では第3次桂内閣打倒の中心的役割をはたすが,山本内閣との提携に反対して脱党,中正会を結成。第2次大隈内閣には法相として入閣,大浦内相の汚職事件を追及。憲政会総務となったが普選論をめぐる対立で脱党,革新倶楽部に参加した。第2次護憲運動以降は無所属。昭和期には日独伊三国同盟反対,大政翼賛会批判の立場から活動。翼賛選挙では不敬事件をひきおこした。

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知恵蔵mini 「尾崎行雄」の解説

尾崎行雄

1960年代に活躍したプロ野球選手(投手)。1944年9月11日、大阪府泉大津市生まれ。浪商高校時代に3季連続で甲子園に出場。スリークォーターから投げ込む速球は160キロ近くを出していたとされる。「怪童」と称され、61年11月に高校を中退し「東映フライヤーズ」に入団した。入団1年目の62年には20勝9敗、防御率2.42という成績で新人王を獲得。18歳での新人王獲得は史上最年少(2013年現在)。63年は低迷したが、64~66年も20勝を超え、防御率1.88~2.62という驚異的活躍をみせた。しかし67年夏に右肩を故障し、73年、29歳の若さで現役引退。プロ通算成績は、107勝83敗、1010奪三振、防御率2.70。引退後はレストランを経営、後にスポーツ関係会社に勤務しつつ少年野球の指導者として活躍した。2013年6月13日、肺癌により死去。享年68。

(2013-6-17)

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旺文社日本史事典 三訂版 「尾崎行雄」の解説

尾崎行雄
おざきゆきお

1859〜1954
明治〜昭和期の政党政治家
相模(神奈川県)の生まれ。第一議会の選挙から代議士当選連続25回(1890〜1952)。その間,文相・東京市長・法相などを歴任。1913年には第1次護憲運動の先頭に立ち,桂太郎内閣を倒す。その後も普選運動の中心となって政党政治の確立につとめ,「憲政の神様」といわれた。昭和期には軍部に抵抗したが孤立の状態であった。

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世界大百科事典(旧版)内の尾崎行雄の言及

【サクラ(桜)】より

…またG.ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も,農園のサクランボであった。しかし,アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は,1909年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノなどをもととしている。ただし同年に贈られた2000本の苗木は虫害のためすべて焼却され,12年に改めて3100本が贈られた。…

【不敬罪】より

…天皇や皇族あるいはその墓などに対しその名誉を毀損する行為を処罰する罪名。不敬罪は,近代天皇制国家の成立にともない1880年(明治13)7月17日に公布された刑法典(旧刑法と呼ぶ)の第2編第1章〈皇室ニ対スル罪〉のなかに登場し,1907年の旧刑法全面改正(1908施行。以下,明治40年刑法と呼ぶ)においても若干の修正を受けたのみで残り,47年(昭和22),新憲法の施行にともなう刑法一部改正によって廃止されるまで,天皇や天皇制に関する思想や学問・言論の抑圧,さらには新興宗教団体の弾圧に猛威を振るった。…

※「尾崎行雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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