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尾崎行雄 おざきゆきお

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

尾崎行雄
おざきゆきお

[生]安政5(1858).11.20. 相模,又野
[没]1954.10.6. 神奈川,逗子
明治,大正,昭和の3代にわたる政党政治家。号は学堂のち咢堂。 1876年慶應義塾中退。 1879~91年,福沢諭吉の推薦により『新潟新聞』主筆,のち,大隈重信に招かれ 1881年統計院権少書記官

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デジタル大辞泉の解説

おざき‐ゆきお〔をざきゆきを〕【尾崎行雄】

[1858~1954]政治家。神奈川の生まれ。号、咢堂(がくどう)。明治15年(1882)立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年(1913)の第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された。

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百科事典マイペディアの解説

尾崎行雄【おざきゆきお】

政治家。号は咢堂(がくどう)。相模(さがみ)国津久井郡の出身。〈憲政の神様〉といわれ,一貫した政党政治の擁護者。慶応義塾に学び,1882年立憲改進党に参加。1887年の三大事件建白運動では保安条例により東京追放。
→関連項目大隈重信内閣革新倶楽部共和演説事件護憲運動朝野新聞ポトマック[川]

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朝日日本歴史人物事典の解説

尾崎行雄

没年:昭和29.10.6(1954)
生年:安政5.11.20(1858.12.24)
国家主義自由主義的政党政治家。号は咢堂。相模国(神奈川県)生まれ。父行正,母貞子。慶応義塾などに学び,文才を認められて新聞記者になったが,明治14(1881)年大隈重信の招きで統計院権少書記官に任官,同年いわゆる明治14年政変で退官。15年『郵便報知新聞』論説記者となり,立憲改進党の結成にも参画。以後改進党系のジャーナリスト,政治家として活躍。21年欧米遊学。23年第1回総選挙に三重県から当選,以後昭和27(1952)年の総選挙まで25回連続当選した。藩閥政府攻撃の急先鋒であったが,明治29年第2次松方内閣外務省勅任参事官,31年憲政党総務,同年同党を基礎に成立した隈板内閣に文相として入閣。共和演説事件で辞任。33年伊藤博文立憲政友会結成に参画し,最高幹部のひとりとなったが,のち脱党。36年東京市長に推され,45年まで在職。その間政友会に復党,大正1(1912)年の憲政擁護運動で,国民党の犬養毅と運動を指導し,「憲政の神様」と称された。のち政友会脱党,3年第2次大隈内閣に法相として入閣。憲政会結成で筆頭総務となったが,普選即行論で10年除名され,軍備縮小論を主張して遊説した。革新倶楽部に属したが,14年以降おおむね無所属として,政党の腐敗,軍部の台頭,全体主義的傾向への批判を続けた。昭和16年翼賛運動を批判し,鳩山一郎らと同交会を結成。17年翼賛選挙の際の演説で不敬罪で起訴されたが,19年無罪判決。戦後は,世界連邦建設を提唱。28年選挙で初めて落選。翌年死去。多くの著作などは『尾崎咢堂全集』12巻に収められている。

(伊藤隆)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

おざきゆきお【尾崎行雄】

1859‐1954(安政6‐昭和29)
日本近代の代表的自由主義政治家。号は咢堂。相模国又野村(現,神奈川県津久井町)出身。慶応義塾中退後新聞記者となり,1882年立憲改進党創立に参画。87年の三大事件建白運動では,保安条例による東京退去処分を受けた。90年第1回総選挙に三重県から当選,以後25回連続当選,代議士生活63年。98年大隈重信内閣の文相となったが,日本に共和制を想定した演説が不敬と非難されて辞職。1900年立憲政友会の創立に参加。

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大辞林 第三版の解説

おざきゆきお【尾崎行雄】

1858~1954) 政治家。神奈川県生まれ。号は咢堂がくどう。慶応義塾中退。第一回総選挙以降連続二五回当選。文相・東京市長・法相などを歴任。その間、護憲・普選・軍縮運動に活躍。常に中立・公正の立場から立憲政治の擁護に努め、「憲政の神様」と称される。

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知恵蔵miniの解説

尾崎行雄

1960年代に活躍したプロ野球選手(投手)。1944年9月11日、大阪府泉大津市生まれ。浪商高校時代に3季連続で甲子園に出場。スリークォーターから投げ込む速球は160キロ近くを出していたとされる。「怪童」と称され、61年11月に高校を中退し「東映フライヤーズ」に入団した。入団1年目の62年には20勝9敗、防御率2.42という成績で新人王を獲得。18歳での新人王獲得は史上最年少(2013年現在)。63年は低迷したが、64~66年も20勝を超え、防御率1.88~2.62という驚異的活躍をみせた。しかし67年夏に右肩を故障し、73年、29歳の若さで現役引退。プロ通算成績は、107勝83敗、1010奪三振、防御率2.70。引退後はレストランを経営、後にスポーツ関係会社に勤務しつつ少年野球の指導者として活躍した。2013年6月13日、肺癌により死去。享年68。

(2013-6-17)

出典|(株)朝日新聞出版発行
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

尾崎行雄
おざきゆきお
(1858―1954)

政治家。戸籍上は安政(あんせい)6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清(にっしん)戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣では外務省参事官、第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文(いとうひろぶみ)の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎(かつらたろう)内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が倒れると、国民党の犬養毅(いぬかいつよし)とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。
 第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部(くらぶ)に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一(たなかぎいち)内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機(とうじょうひでき)首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。また長年の同志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され有罪判決を受けるが、1944年の大審院では無罪となった。第二次世界大戦後は、戦時中の姿勢ゆえに時代の脚光を浴び、国会では長老的存在として発言した。昭和29年10月6日死去。[北河賢三]
『伊佐秀雄著『尾崎行雄』(1960・吉川弘文館) ▽『尾崎咢堂全集』全12巻(1955~1956・公論社) ▽西川圭三著『咢堂・尾崎行雄の生涯』(2009・論創社)』

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世界大百科事典内の尾崎行雄の言及

【サクラ(桜)】より

…またG.ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も,農園のサクランボであった。しかし,アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は,1909年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノなどをもととしている。ただし同年に贈られた2000本の苗木は虫害のためすべて焼却され,12年に改めて3100本が贈られた。…

【不敬罪】より

…天皇や皇族あるいはその墓などに対しその名誉を毀損する行為を処罰する罪名。不敬罪は,近代天皇制国家の成立にともない1880年(明治13)7月17日に公布された刑法典(旧刑法と呼ぶ)の第2編第1章〈皇室ニ対スル罪〉のなかに登場し,1907年の旧刑法全面改正(1908施行。以下,明治40年刑法と呼ぶ)においても若干の修正を受けたのみで残り,47年(昭和22),新憲法の施行にともなう刑法一部改正によって廃止されるまで,天皇や天皇制に関する思想や学問・言論の抑圧,さらには新興宗教団体の弾圧に猛威を振るった。…

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