日本歴史地名大系 「須浜町」の解説 須浜町すはまちよう 京都市:上京区正親学区須浜町上京区上長者町通裏門東入町のほぼ中央を南北に智恵光院(ちえこういん)通が、北寄りを東西に上長者町(かみちようじやまち)通が通る。東側は日暮(ひぐらし)通、西側は裏門(うらもん)通。平安京大内裏の「梨本」から「左近衛府」にわたる跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。近世の聚楽第(じゆらくだい)ほぼ中央、本丸の南に位置した須浜(洲浜)の跡地で、町名はこれによるという(坊目誌)。寛永一四年(一六三七)洛中絵図では「すあま丁」と記される。以後、町の東と西とで呼称が異なる例が多い。町の東は承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図では「すはまよこ丁」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」では「洲浜池よこ町」、元禄末の洛中絵図では「東須浜丁」とある。 須浜町すはまちよう 京都市:下京区有隣学区須浜町下京区御幸町通松原下ル南北に通る御幸町(ごこまち)通を挟む両側町。町の南側は万寿寺(まんじゆうじ)通(旧樋口小路)にも面する。平安京の条坊では、左京六条四坊四保一六町の地。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「五条すあま町」とみえ、以後江戸時代を通じて町名変更はない。町の東側には、かつて真宗大谷派本願寺末の円光(えんこう)寺があった。初め近江国野洲(やす)郡八夫(やぶ)村(現滋賀県野洲郡中主町)にあり、開基は僧教信と伝える(坊目誌)が、いつ当町に移転されたかは不明。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by