ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「顧実汗」の意味・わかりやすい解説
顧実汗
こじつかん
Gu-shi-han; Ku-shih-han
[没]1656
オイラート (瓦剌) 4部の一つ,ホシュート (和碩特) 部の始祖。固始汗とも書く。チンギス・ハンの弟ハサル (哈薩爾) の子孫といわれる。グシ・ハンとも呼ばれ,1606年オイラートとハルハ (哈爾哈) 部の争いを調停して受けた国師汗の称の転訛。名はトゥルバイフ Törö bayiqu。 36年ラサをたずね,黄教側の依頼を受け,同年結氷期にチョロスのバートル・フンタイジに命じて軍を南下させ青海に入り,先にハルハから追われてこの地に勢力を得ていたチョクトゥ汗を滅ぼし,38,39年にジュンガリアから残りの一族を呼び寄せて定着した。のちバートル・フンタイジに娘を与えてジュンガリアに返し,40年カムの王ペリ・ドウンユを討ち,41年大軍を率いて中央チベットに向い,翌年初めカルマ・テンキョン・ワンポ (→蔵巴汗〈ぞうはかん〉 ) を滅ぼしてダライ・ラマ5世を推戴し,ソナム・チュンペルを宰相に任命し,みずからはチベット王を称した。 53年,ダライ・ラマが清朝におもむいて封爵を受けたとき,チベットにあって遵行文義敏慧顧実汗 (じゅんぎょうぶんぎびんけいこじつかん) の称号を贈られたが,まもなく没した。
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