オイラート(読み)おいらーと(英語表記)Oyirad

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オイラート」の意味・わかりやすい解説

オイラート
おいらーと
Oyirad

ロシア連邦のカルムイキア(カルムイキア・ハリムグ・タングチ)共和国、中国の新疆(しんきょう/シンチヤン)ウイグル自治区および青海省、モンゴルなどに分布するモンゴル系民族。瓦剌、衛拉特、斡亦剌惕とも書く。またカルムイク(カルムク)、エルート(額魯特、厄魯特)ともよばれる。13世紀にエニセイ川上流域に住み、チンギス・ハンに征服されたが、15世紀中ごろエセンが出て一時全モンゴルを統一した。16世紀後半にはホシュート、ジュンガル、ドルベート、トルグート、バートゥト、ホイトの諸部からなり、ドルベン・オイラートとよばれイルティシ川上流域に住んだが、内モンゴル族のアルタン・ハンに討たれて一時衰えた。17世紀前半にはホシュート部がオイラート全部を支配したほか、ホシュート部のグシ・ハンが青海地方へ進出してチベットをも征服した。17世紀後半にホシュート部にかわってジュンガル部が台頭、その部にガルダンが出てオイラート全部を統一し、東トルキスタンをも従えてジュンガル(準噶爾王国を築いた。ガルダンは外モンゴル侵略を企てたことから清(しん)と争うようになったが、1697年敗死した。ついで立ったツェワン・アラプタン、ガルダン・ツェレンの代が王国の最盛期で、清とは和平関係を保ちつつ、西トルキスタン進出を図った。しかし1758年、王国の内紛に乗じた清のために滅ぼされた。

若松 寛]

『佐口透著『ロシアとアジア草原』(1966・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オイラート」の意味・わかりやすい解説

オイラート(瓦剌)
オイラート
Oirāt

オイラットともいう。ヨーロッパではカルムイク,カルムックと呼ばれる。モンゴル系の言語を話す北アジアの遊牧民族の一つ。歴史に初めて登場したのは 13世紀初めであるが,当時は,エニセイ川上流のダルハト盆地のシシヒト川渓谷を本拠とし,シベリアの森林の狩猟民を支配していた。その王家がモンゴルのチンギス・ハンにくだってから,代々モンゴルの帝室と通婚した。 14世紀後半にモンゴルが衰退するとともに勢力を伸ばし,1388年北元のトクズ・テムル (脱古思帖木児)を滅ぼしてから実権を握り,マフムード,トガンエセン (也先)の3代の間に北アジアに大帝国を建設した。 1454年エセン・ハンが殺されるとともに帝国は瓦解,16世紀後半にはアルタン (俺答)征伐を受けて以来,外モンゴルのハルハ (哈爾哈) 部族に押されてシベリアに追出された。この頃のオイラートは昔の王家の直系のホイト,バートゥット,ナイマンの後裔と思われるジュンガル,ドルベット,ケレイトの後裔トルグート,チンギス・ハンの弟ジョチ・ハサルの子孫の所領ホショット,そのほかバルグ,ブリヤートなどから成っていた。 1623年ハルハのウバシ・ホンタイジの軍を破ってから勢力を盛返し,トルグートは 28~30年南ロシアに移住して今のボルガ・カルムックとなった。ホショットは 36~42年に青海,チベットを征服した。ジュンガルのガルダン (噶爾丹)が 76年ホショットのオチルトゥ・ハンを捕えるに及んでオイラートの覇権はホショットからジュンガルに移り,1757年清朝にアムルサナー (阿睦爾撒納)が滅ぼされるまで,ジュンガル王国は東トルキスタンを支配し,西トルキスタン諸国から貢税を取って繁栄した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報