飯沼新田
いいぬましんでん
飯沼の干拓によってできた新田地帯で、飯沼三千町歩といわれる穀倉を形成する。「飯湖新発記」によれば寛文九年(一六六九)と宝永三年(一七〇六)に幕府代官による調査が行われ、開発の願書が出されたが実施には至らなかった。飯沼新田開発の直接の契機は享保七年(一七二二)に岡田郡尾崎村(現結城郡八千代町)の名主左平太が江戸日本橋で新田開発奨励の高札を見て、同年七月二三日に飯沼廻り二〇ヵ村代表として飯沼御新田御願(飯湖新発記)を江戸町奉行中山出雲守晴春へ提出したことである。八月二二日には沼廻り二〇ヵ村、すなわち尾崎村のほか猿嶋郡・結城郡・岡田郡の弓田村・馬立村・幸田村・神田山村・猫実村(現岩井市)、沓掛村・山村・逆井村(現猿島町)、東山田村・仁連村・恩名村(現三和町)、平塚村・芦ヶ谷村・栗山村(現八千代町)、崎房村・馬場村・鴻野山村・古間木村(現結城郡石下町)、大生郷村(現水海道市)の名主四一名が連印のうえ改めて願書を出した。
沼廻りは二三ヵ村あり、前記以外の猿嶋郡大口村(現岩井市)、岡田郡横曾根村・横曾根古新田(現水海道市)は別途に願書を提出した。幕府は再三にわたる現地調査の結果、享保九年五月六日付で飯沼の新田開発を許可した。許可状には二三ヵ村に対し「飯沼水自分入用を以利根川通江切落新田開発可仕候」とあり、新堀の掘削によって利根川へ落水する村請開発の許可であった。同月に猿嶋郡生子村(現猿島町)が加盟し、同一〇年五月には横曾根古新田が脱退している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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