沓掛村(読み)くつかけむら

日本歴史地名大系 「沓掛村」の解説

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]猿島町沓掛

半谷はんや(現岩井市)の東に所在。北から東南に西仁連にしにれ川が流れ、その北は飯沼新田いいぬましんでん。南部・西部は台地。村のほぼ中央は宿の要素をもった集落をなし、南北に岩井―結城街道が貫通。わずかながら馬継場の役割を果してきた。飯沼の枝ヤトに臨む神明しんめい遺跡は住居跡で、縄文土器片が多く散在し、石斧なども出土。また神明社地は前方後円の神明塚しんめいづか古墳で、原形は崩れているが青銅鏡や埴輪片が出土。

戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)の「下さしま廿四むら」のうちに「くつかけのかう 廿弐貫文 ミ年貢 夫銭八貫文」とある。また大永年間(一五二一―二八)の日光山滝尾別所の古銅経筒の銘に「下総国沓掛庄、松本民部少輔宗善、大永□□霜月吉日」とあり、松本氏が当地の地頭であったと考えられる。永禄四年(一五六一)には上杉謙信が下総関宿城を襲うとのことで、関宿城主簗田氏より「沓懸村」の郷士張替甚平らに籠城の催促状(中村家文書)が順達された。江戸初期は関宿藩領で猿島郡上郷に属したが、享保一〇年(一七二五)飯沼新田開発の関係から天領となり、明治に至った。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]軽井沢中軽井沢なかかるいざわ

沓掛宿を中心に、離山新田はなれやましんでん前沢新田まえざわしんでん古宿ふるやどと中山道沿いに集落を形成する村。北背に浅間山があり、峰の茶屋みねのちやや花田はなだ峠)に通じ、南は鳥居原とりいはら油井ゆい村を経て入山いりやま峠・和美わみ峠に出る。

沓掛の名は、天文四年(一五三五)の「紙本墨書大般若経」(追分諏訪神社旧蔵)に「信州佐久郡大井庄於長倉沓懸」とみえるのが初見である。沓掛は馬匹あるいは交通にかかわる地名で、この地域の特性と古さを示す。

宿の北方四〇〇メートル辺りに、東は離山から西は借宿かりやど追分おいわけにかけて「駒飼の土堤こまがいのどて」と称する遺構があり、この辺りが古代の官牧長倉ながくら牧の境域であったことが確認されている。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]大田村沓掛

石丸いしまる村の西方に位置し、かつら川が流れる。南に下沓掛、その北に上沓掛がある。杵築きつき高田たかだ道が通る。中世は田原たわら別符の内としてみえる。慶長豊後国絵図に「沓通村」とみえ、高一千七〇〇余石。小倉藩元和人畜改帳では沓掛村とし、両子久左衛門手永の長岡市式部少殿知行分として高九四四石余で、家数七二のうち本百姓・小百姓三五、庭屋・牛屋など三三、男一〇七(うち名子一〇・山守一・出家三など)・女四四、牛二四・馬三。正保郷帳では田原庄に属し、田高三五〇石余・畑高一一三石余で、柴山有・竹山有と注記され、新田があった。正保二年(一六四五)杵築藩領(上沓掛村)と幕府領同藩預地(下沓掛村)に分れた。下沓掛村は寛文九年(一六六九)島原藩領となり、元禄郷帳では松平主殿の知行分として沓掛村二七七石余。また日向守知行分(上沓掛村)として高四六四石余とある。安永三年(一七七四)の島原藩領郷村帳(島原半島史)では沓掛村高二七七石余とあり、新田四九石余。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]豊明市沓掛町

古東海道(鎌倉街道)が村の北西部を通り、東は部田へた(現愛知郡東郷町)、南はさかい川を隔てて三河に続き、西は沓掛新田、北は間米まごめ村・鳴海なるみ村に接する。「尾張国地名考」に「沓掛の名は古駅の残れる也。藁沓を軒端につるして沽ることは駅に限る事なり」「相伝えて云くむかし在原の業平朝臣東国下りの折から爰にて沓を掛られたるによりて村名となる」とある。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]磯部町沓掛

川の中流域の小河谷にあり、南は山田やまだ村に接する。古代礒部いそべ(「延喜式」兵部省)の所在地と考えられている(志摩国の→駅家郷。天文二十三年十二月十九日文書(下之郷南氏旧蔵)には沓懸とも記している。「志陽略誌」の答志とうし郡村里の条に「中世割上之郷沓掛山田二村」とあり山田とともに上之郷から分置されたもので、沓掛・山田・上之郷はもと上村と称されていた。「氏経卿引付」応仁三年(一四六九)八月二七日、内宮政所大夫氏秀書状には磯部七郷と記されている。字殿岡とのおかには足利氏が全国に建立した志摩国の安国あんこく寺跡があり、寺院跡や土居が残っている。

近世を通じて鳥羽藩領で、答志郡に属した。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高一八〇・〇三一石のうち二石が山年貢高として寛文四年(一六六四)から定引となっており、ほかに永荒が二二・一五八石あった。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]今市市沓掛

鬼怒川支流清水しみず川の北岸にあり、北・東は小林こばやし村。南方にたかへら山(四三二・八メートル)がある。中央を南北に日光街道沿いの石那田いしなだ(現宇都宮市)への道が通る。河内かわち郡に属する。日光山往古社領六十六郷のうちに沓掛郷があり、法泉坊領(日光山常行三昧堂新造大過去帳)

慶安郷帳に村名がみえ、武蔵岩槻藩領。その後幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)各七三石余が旗本森川・三宅へ分給され三給。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]愛知川町沓掛

中宿なかじゆく村・いち村の北に位置する。中世には足子商人・山越商人とよばれ、遠国へ行商する商人が居住した。享禄二年(一五二九)と推定される五箇商人申状案(今堀日吉神社文書)に沓懸とみえ、保内・石塔いしどう(現蒲生郡蒲生町)小幡おばた(現神崎郡五個荘町)とともに八風はつぷう千種ちくさ越で伊勢に商売に行く四本商人の一つであった。年未詳六月七日の木幡商人申状案(同文書)に「くつかけ」とみえ、愛知川北市で相物商売をしていた。永禄元年(一五五八)一二月一一日に六角氏観音寺かんのんじ(現蒲生郡安土町)の法廷へ提出された保内商人申状案(同文書)によれば、保内商人から紙を卸してもらっていたという。江戸時代にもこの流れをくむ商人が居住し、近江商人の一翼を担っていたと思われる。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]岡部町沓掛

沓懸とも記す。櫛挽くしびき台地の北西部に位置し、東はおか村、西は志戸しど川を挟んで榛沢はんざわ村、北は西田にしだ村。村名の由来は沓掛信仰にちなんで道の分岐点につけられたとする説、台地末端の崖が湾曲して沓の形をしているところに由来する説などがある。村内を中山道深谷宿からの八幡山はちまんやま(児玉道)などの脇往還が通る。文明一二年(一四八〇)一一月二八日の太田道灌書状写(松平文庫所蔵文書)によると、同年一月四日に児玉(現児玉町)に攻め入った長尾景春に対し、同月一三日道灌は「沓懸」へ陣を進めている。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]青木村大字沓掛

現青木村の南端、浦野うらの川の上流の相染あいそめ川・宮淵みやぶち川の流域にある集落。本村ほんむら宮原みやはら琴山ことやま釜房かまぶさなどの小集落に分れる。東は夫神おがみ岳。沓掛くつかけという地名は、「延喜式」所載の官道東山道がこの集落を通過していたことに由来すると考えられている。

慶長一三年(一六〇八)成立の上田領内村々貫高帳(大井文書)に「三拾五貫文 くつかけ」とあるのが初見。また元和八年(一六二二)真田氏に代わった仙石氏に交付され、小県郡上田領高石帳(仙石文書)に「高八拾六石四斗五升三十五貫文 沓掛村」とある。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]下津町沓掛

青枝あおし村の南、加茂かも川の支流市坪いちつぼ川の最上流に位置し、川に沿う熊野街道の上り坂が続く。西の小畑こばた村との境にはいノ峠がある。集落は南の有田郡との境界をなす長峰ながみね山脈の北斜面にあり、上沓掛かみくつかけと下沓掛に分れる。「続風土記」は、平地では沓を用い坂道では草鞋を用いるが、当地は坂道で沓は用いず掛けておくことから名が生じたという。街道に沿う地蔵堂の傍らに沓掛松があるとも記す。

慶長検地高目録によると村高一七六石余、小物成一斗六升八合。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によれば当村は藩の蔵入地で、本田畑高一五七・五七四石、新田畑高・開起田畑はなく、戸数三三、人数一五五とある。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]西浅井町沓掛

集福寺しゆうふくじ村の北西、北西の越前国境の深坂ふかさか峠に発し南東流するおお川上流の山峡に立地。大川沿いに塩津しおつ街道が通る。同街道は北部で大浦おおうら谷に沿う大浦道を合せたあと分岐し、深坂越で追分おいわけ(現福井県敦賀市)新道野しんどうの(沓掛越・塩津越)で新道野(現同上)に至る。深坂越沿いに石畳や問屋跡が残る。平安時代末期平清盛が塩津と敦賀を結ぶ運河開削を計画、その名残と伝える深坂地蔵(掘止地蔵)が祀られている。寛永石高帳に村名がみえ高二五四石余、山城淀藩領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]西京区大枝おおえ沓掛町

山陰道おいさか峠の京都側に位置。北は下山田しもやまだ、東は御陵みささぎ・塚原、南は長野新田・大原野おおはらのの各村に接し、西は丹波国境に面する。沓掛集落のある東端の一部を除いて大部分が山間部。

村名は各地の「沓掛」地名同様、古代駅舎で、履を懸け置く駅亭の意といわれる。保元二年(一一五七)の山城物集女もずめ庄預所下文案(宮内庁書陵部蔵壬生家文書)に、「物集北御庄内沓懸村」とあり、平安末期には物集北庄(現向日市)の一部に入っていたようで、物集庄預所(当時の領主は未詳)長寛が、当村住人永厳に対し、死亡人是光の古作畑を宛行っていることが判明する。しかし中世の沓掛については史料に現れず、詳細はほとんど不明であり、近世の村域と同一かどうかもわからない。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]関町沓掛

市瀬いちのせ村の北の東海道沿いの村。天正一七年(一五八九)九月の関盛信の鈴鹿明神(現片山神社)宛の寄進状に「鈴鹿大明神江為御寄進於沓掛郷七石被遣候」(九九五集)とみえ、文禄検地帳の転記とみられる伊勢国中御検地高帳には沓掛村と出る。初め亀山藩領、元和元年(一六一五)幕府領、寛永一三年(一六三六)から再び亀山藩領。亀山封内風土記(国立公文書館蔵)によると享保二年(一七一七)の家数四九、人数男一一四・女九七、馬五。神明社(明治四一年坂下の現片山神社に合祀)と正徳二年(一七一二)天台宗から改宗した超泉ちようせん(真宗大谷派)がある。枝郷ならは「五鈴遺響」に「寛文五年ヨリ分置処ナリ、官道ニ居ス、紫藤花ノ茶店アリ、又此処一里塚ナリ」などとみえる。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]瀬戸市定光寺じようこうじ

下半田川しもはだがわ村の西にある。沓懸とも書く。沓掛は中世、水野みずの郷から半田川郷を経て美濃へ抜ける道にあったと考えられる。定光寺祠堂帳(定光寺蔵)に、「□百文内百文ハ沓懸助右衛門納掬泉寿延」「壱段天正二甲戌 沓懸大東 坪本下前二良左衛門尉小作心月常空禅門」とある。沓掛は、天正一一年(一五八三)頃は尾塞次兵衛の領地であった(織田信雄分限帳)

「徇行記」によれば田は一二町七反四畝余、畑は四町七反八畝余。

沓掛村
くつかけむら

[現在地名]奈良市沓掛町

東田原ひがしたわら村北東部、水間みま峠西口にある。「春日社記録」中臣祐賢記文永一〇年(一二七三)七月二二日条に「今日、沓懸御庄住人等モ同申上云々」とある。東田原村からの分村。元禄郷帳の村高は一二一・六四石、「東田原之枝郷」と注記する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報