日本歴史地名大系 「沓掛村」の解説
沓掛村
くつかけむら
戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)の「下さしま廿四むら」のうちに「くつかけのかう 廿弐貫文 ミ年貢 夫銭八貫文」とある。また大永年間(一五二一―二八)の日光山滝尾別所の古銅経筒の銘に「下総国沓掛庄、松本民部少輔宗善、大永□□霜月吉日」とあり、松本氏が当地の地頭であったと考えられる。永禄四年(一五六一)には上杉謙信が下総関宿城を襲うとのことで、関宿城主簗田氏より「沓懸村」の郷士張替甚平らに籠城の催促状(中村家文書)が順達された。江戸初期は関宿藩領で猿島郡上郷に属したが、享保一〇年(一七二五)飯沼新田開発の関係から天領となり、明治に至った。
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
近世を通じて鳥羽藩領で、答志郡に属した。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高一八〇・〇三一石のうち二石が山年貢高として寛文四年(一六六四)から定引となっており、ほかに永荒が二二・一五八石あった。
沓掛村
くつかけむら
- 栃木県:今市市
- 沓掛村
鬼怒川支流
慶安郷帳に村名がみえ、武蔵岩槻藩領。その後幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)各七三石余が旗本森川・三宅へ分給され三給。
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
慶長検地高目録によると村高一七六石余、小物成一斗六升八合。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によれば当村は藩の蔵入地で、本田畑高一五七・五七四石、新田畑高・開起田畑はなく、戸数三三、人数一五五とある。
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
- 京都市:西京区
- 沓掛村
山陰道
村名は各地の「沓掛」地名同様、古代駅舎で、履を懸け置く駅亭の意といわれる。保元二年(一一五七)の山城
沓掛村
くつかけむら
沓掛村
くつかけむら
- 愛知県:瀬戸市
- 沓掛村
「徇行記」によれば田は一二町七反四畝余、畑は四町七反八畝余。
沓掛村
くつかけむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報