日本歴史地名大系 「飯浦村」の解説 飯浦村いいのうらむら 島根県:益田市飯浦村[現在地名]益田市飯浦町石見国最西端、飯浦川の流域に位置し、東は二見(ふたみ)村、南は有田(ありた)村、西は江崎(えさき)村(現山口県田万川町)、北は日本海。地名のいわれは仲哀天皇諸国廻国の折、岩山の多い海岸をみて石見の浦・石見村と名付け、のちに安禄山の乱に備えて起飯人(紀伊の人)が浦を防備するために来着した故事によって飯浦と改めたという(石見八重葎)。東は人形(にんぎよう)峠、西は仏(ほとけ)峠、南は険しい山を控えた交通の難所でありながら、津和野藩唯一の良港でもあったので、この浦まで輸送する労力は並大抵ではなかった。江戸時代の支配の変遷は持石(もちいし)村と同じ。古高一六六石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一四九石余(万手鑑)。 飯浦村はんのうらむら 滋賀県:伊香郡木之本町飯浦村[現在地名]木之本町飯浦大音(おおと)村の西、賤(しず)ヶ岳南西麓山地に立地。琵琶湖北岸の飯浦湾に臨む漁山村。飯之浦村とも書く。寿永二年(一一八三)入京しようとする木曾義仲を迎え討とうとした平氏の軍勢が、「春の浦」(飯浦)を通っている(「源平盛衰記」巻二八)。永享五年(一四三三)四月八日の売券(竹生島文書)によれば、飯浦内貴新衛門殿子息三位卿が竹生(ちくぶ)島(現東浅井郡びわ町)の金竹房を買得している。北方余呉(よご)湖南岸に当村飛地があり、賤ヶ岳西尾根越の道が通じ、丹生(にゆう)谷・余呉谷(現余呉町)の各村から年貢等を飯浦湊へ運んだ。「輿地志略」に近江国より京都に赴く商人が多く同湊を利用、戸数五〇余とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by