日本歴史地名大系 「香下村」の解説 香下村こうしたむら 大分県:宇佐郡院内町香下村[現在地名]院内町香下恵良(えら)川が津房(つぶさ)川と合流して駅館(やつかん)川となる地にあり、西からは妙見(みようけん)川も合流する。元禄豊前国絵図によれば、恵良川に沿って四日市(よつかいち)陣屋(現宇佐市)と豊後国玖珠(くす)郡を結ぶ往還が南北に走り、村内で妙見川を渡る。東は小坂(おさか)村、南は櫛野(くしの)村。香志田とも記される。正平八年(一三五三)七月二三日の少弐頼尚感状(高並文書)に「香志田城夜討」とあり、高並彦八の忠勤を賞している。同一六年一二月一七日の少弐頼澄挙状案(永弘文書)に「香志田村田畠山野同有沢名田畠屋敷等地頭職事」とあり、香志田図書允内重が地頭職安堵を願出ている。村内に有沢(ありさわ)名があり、同年一一月二二日の香志田内重事書案(同文書)に「有沢名事、為惣領之由書下を取て候」とみえる。当村の地頭職は香志田氏がもっていて、正平二二年八月一日の香志田妙円譲状(同文書)に「同国香志田村地頭職」とみえ、また香志田氏は宇佐郡・下毛郡内や石垣(いしがき)庄(現別府市)・田染(たしぶ)庄(現豊後高田市)・来縄(くなわ)郷(現同上)内に所領をもっている。 香下村かしたむら 兵庫県:三田市香下村[現在地名]三田市香下高次(たかすぎ)村の北東に位置し、東部は羽束(はつか)山(香下山、五二四メートル)ほか標高五〇〇メートル級の山々に囲まれる。東は川辺(かわべ)郡木器(こうづき)村、波豆(はず)村(現宝塚市)に接する。西部は南流する砥石(といし)川の山間に開けた水田地帯。地内の真言宗御室派香下寺は寺地が要害に適していたようで、南北朝期には香下寺(かしたでら)城とも称された。建武五年(一三三八)六月日の貴志義氏軍忠状案(余田文書)によれば、北朝方の義氏は「香下寺・丹生寺両城凶徒」と合戦し戦功をあげたという。香下寺城は当時南朝方の拠点の一であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by