院内町(読み)いんないまち

日本歴史地名大系 「院内町」の解説

院内町
いんないまち

面積:一一三・六二平方キロ

標高三〇〇―五〇〇メートルの丘陵地が続く山間地帯に位置し、北は宇佐市、東は安心院あじむ町、南は玖珠くす郡玖珠町、西は下毛郡本耶馬渓ほんやばけい町・耶馬渓町に接する。玖珠町の日出生ひじゆう台の水は西椎屋にししや滝となり恵良えら川となる。下毛郡境の谷川温見ぬくみ川となり下恵良で、玖珠郡境の谷川の水はあまり川となり飯塚いいづかで恵良川に合流する。この三つの川沿いの村々を南院内谷と称している。定別当じようべつとう岳切たつきりの谷川の水は院内川となり大門だいもんの谷を集め斎藤さいとうで恵良川に合流する。この谷を院内谷と称する。鹿嵐かならせ山南麓の水は五名ごみようの谷となり、日岳ひのたけ川となつて原口はるぐちで恵良川に合流する。この谷を東院内谷という。鹿嵐山北麓や仙岩せんがん山麓の水は高並たかなみ川となり打上うちあがりで恵良川と合流する。この谷を高並谷という。各谷川を集めた恵良川は三又みつまた津房つぶさ川と合流し駅館やつかん川となる。院内の地名は延暦一四年(七九五)九月一七日の太政官符(類聚三代格)により安心院に倉院が創設されたため、郷名を称せず院内と称したものであろう。

香下こうした田畑から石斧・弥生土器などが出土している。古墳下余しもあまりに二つと横穴古墳が来鉢くばちに四三、原口に六七ある。原口の横穴には同心円の装飾横穴が四つあり、「日本書紀」景行天皇一二年九月条にいう宇佐川上鼻垂の居住した地との説もある。「和名抄」宇佐郡垣田かきた郷が当町内にあたるとみられる。「豊前志」は余について「此れは余戸なるべし」としている。「宇佐郡誌」によると、香下神社は養老三年(七一九)に法蓮が妙見みようけん山上に祀ったという。天慶三年(九四〇)には藤原純友がこの山に山城を築いたという。


院内町
いんないちよう

[現在地名]静岡市横田町よこたまち

上横田町から南東に続く東海道の両側町(町方絵図)。印内町とも書く。町名陰陽師(院内・印内)の居住に由来し、慶長一四年(一六〇九)徳川家康が駿府築城に際して当町の陰陽師に地浄めの祈祷をさせたという(駿河記)。「駿府広益」に「家数三拾五軒地代屋敷之内、二拾五軒ハ権現様より諸役御免也」とある。貞亭三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)では印内町とみえ、家数は丁頭家二・本家三三・借家二〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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