日本大百科全書(ニッポニカ) 「馬文升」の意味・わかりやすい解説
馬文升
ばぶんしょう
(1426―1510)
中国、明(みん)代中期の政治家。字(あざな)は負図(ふと)、号は鈞陽(きんよう)。諡(おくりな)は端肅(たんしゅく)、鈞州(きんしゅう)(河南省)の人。1451年の進士。御史(ぎょし)となり、各地で名声を得た。68年固原で帰順した胡人(こじん)満四(まんし)が乱を起こすと陝西巡撫(せんせいじゅんぶ)となり、これを鎮圧、のち遼東(りょうとう)巡撫となる。85年兵部尚書となったが、讒言(ざんげん)にあい左遷された。87年、弘治(こうち)帝即位後に復せられ、89年より12年間兵部尚書を務め、1501年吏部尚書となった。正徳帝のとき、宦官劉瑾(かんがんりゅうきん)のために官を追われ没した。劉瑾失脚後、官を復され、光禄大夫大傅(こうろくたいふたいふ)を授かり、のち左柱国大師を贈られた。彼は文武の才を兼備し、名節を重んじて皇帝に仕えた。著書に『馬端肅奏議』16巻がある。
[鶴見尚弘]