高島玄札(読み)たかしま・げんさつ

朝日日本歴史人物事典 「高島玄札」の解説

高島玄札

没年:延宝4(1676)
生年文禄3(1594)
江戸前期の俳人。名は玄道伊勢(三重県)山田の人で,同地俳壇の古老高島利清の子。慶長19(1614)年ごろ江戸へ出て町家に勤めたのち,医業のかたわら俳諧点者となる。斎藤徳元と並ぶ江戸俳壇草創期の中心人物で,貞門江戸五俳哲のひとり。貞門の第1選集『犬子集』(1633)に,徳元に次いで江戸俳人中第2位の句数が入集する。明暦3(1657)年冬,門人白鴎と両吟の『十種千句』(刊行は1668年)が成る。俳風は,「寛永やあけ七歳のむま(午)の年」などの句のように「上より言掛て興を顕す」(『滑稽太平記』)と評され,言語遊戯をもっぱらとした。

(加藤定彦)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高島玄札」の解説

高島玄札 たかしま-げんさつ

1594-1676 江戸時代前期の医師,俳人。
文禄(ぶんろく)3年生まれ。江戸にでて商家につとめたが,42歳で医師を開業する。俳諧(はいかい)を松永貞徳にまなぶ。貞門五俳哲のひとり。延宝4年死去。83歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。名は玄道。著作に「誹諧抜書」,句集に「とくさ千句」(門人白鴎との両吟)。

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世界大百科事典(旧版)内の高島玄札の言及

【玄札】より

…江戸前期の俳人。姓は高島。伊勢山田の人。1614年(慶長19)ごろ江戸に出て,日本橋南室町の商家に奉公したが,学問を好んで医と俳諧を業とするに至った。肥後守保科正之から五人扶持を賜ったとも伝える。徳元(とくげん)とともに草創期江戸俳壇の大立者で,貞門俳諧の地方普及に果たした功績は大きい。1674‐77(延宝2‐5)ごろ没。〈卯の花のおつるは風のおこり哉〉(《滑稽太平記》)。【乾 裕幸】…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」