日本大百科全書(ニッポニカ) 「高松城水攻め」の意味・わかりやすい解説
高松城水攻め
たかまつじょうみずぜめ
1582年(天正10)、織田信長から中国征伐を命じられた羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が、毛利(もうり)方の城将清水宗治(しみずむねはる)の守る備中(びっちゅう)高松城(岡山市北区高松)に対し行った城攻め。秀吉の兵力は3万。4月27日、最初の攻撃に失敗した秀吉は、三方を深田(ふかだ)に囲まれた城の地形を利用して水攻めを計画、5月7日、城の南東の蛙ヶ鼻(かえるがはな)に本陣を移すと、高さ約6メートル、長さ3キロメートルに及ぶ堤を築き、梅雨期で増水した足守(あしもり)川をせき止めて川水を堤内に引き入れた。21日、毛利氏は1万の兵を率いて来援したが、水中に孤立した城を救出できず講和を申し入れる。こうしたなか、6月3日に本能寺(ほんのうじ)の変の飛報を得た秀吉は、急いで講和交渉を進め、翌日、城兵の助命と引き換えに清水宗治を切腹させ、毛利領国のうち三か国の割譲を条件に講和を締結すると、城を請け取り、5日、兵を撤収して明智光秀(あけちみつひで)討伐に向かった。毛利氏が信長死去の報を得たのは、その直後であった。
[舘鼻 誠]
『『大日本史料 第十一編之一』(復刊・1968・東京大学出版会)』▽『渡辺世祐著『毛利輝元卿伝』(1982・マツノ書店)』▽『加原耕作編著『新釈備中兵乱記 新版』(1994・山陽新聞社)』