1577年(天正5)以降、織田信長が毛利輝元(もうりてるもと)の勢力圏である中国地方に対し行った侵攻戦。信長と毛利氏は、但馬(たじま)・播磨(はりま)(ともに兵庫県)の西側を境として、表面上は友好関係を維持してきたが、1576年、信長が石山本願寺(いしやまほんがんじ)(大阪市)攻めを開始すると、毛利氏は、淡路岩屋(あわじいわや)城(兵庫県淡路市)を占拠し、信長軍を撃破して本願寺を救援、翌1577年には播磨へ侵入した。このため信長は、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉を指揮官に任じ中国征伐を開始、秀吉は、播磨、但馬を転戦し上月(こうづき)城(兵庫県佐用(さよう)町)などを攻略した。1578年、播磨三木(みき)城(三木市)主別所長治(べっしょながはる)、摂津有岡(せっつありおか)城(伊丹(いたみ)市)主荒木村重(むらしげ)が信長に離反したが、1579年、備前(びぜん)の宇喜多(うきた)氏、東伯耆(ひがしほうき)の南条(なんじょう)氏が信長に帰順し、有岡城も落城、丹波(たんば)、丹後(たんご)も明智光秀(あけちみつひで)によって平定された。1580年、別所長治を滅亡させた秀吉は、播磨一向一揆(いっこういっき)の拠点英賀(あが)(姫路市)を占拠して一揆を解体し、播磨を平定すると、姫路城(姫路市)を修築して居城とした。また弟秀長(ひでなが)によって但馬が平定されると、1581年、因幡(いなば)鳥取城(鳥取市)を攻略し、同年淡路を平定、1582年、毛利水軍の伊予来嶋(いよくるしま)氏を帰順させ、備中高松(びっちゅうたかまつ)城(岡山市北区高松)を水攻めにして、救援に駆けつけた毛利氏と対峙(たいじ)した。信長も、自ら中国・四国平定のため出陣したが、京都本能寺(ほんのうじ)で光秀の謀反により自害する。この飛報を得た秀吉は、高松城主清水宗治(しみずむねはる)の切腹と、毛利領国のうち備中、美作(みまさか)、伯耆三か国の割譲を条件に講和を締結し、兵を撤収、中国征伐は未完に終わった。その後秀吉は、領国割譲に関する毛利側の要請をいれ、西伯耆・備中高梁(たかはし)川以西を毛利領として画定し、1583年、毛利氏もこれを受諾して以後秀吉に従属した。
[舘鼻 誠]
『『兵庫県史 第3巻』(1977・兵庫県)』▽『参謀本部編『日本戦史 中国役』(1979・村田書店)』▽『渡辺世祐著『毛利輝元卿伝』(1982・マツノ書店)』
1577-82年(天正5-10)羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の指示によって行った播磨,但馬,因幡,備前,備中の平定戦。中国征伐が開始されたのは明智光秀の丹波・丹後侵入と同じく,石山本願寺の攻防をめぐって織田氏と毛利氏とが戦火をまじえるに至った年である。秀吉は小寺氏の播磨姫路城を根拠として播磨を平定し,但馬に侵入しようとした。1578年毛利氏のため上月城が陥落して盟友尼子一族が滅び,翌年には秀吉自身が信長に専断を叱責されるという困難に遭遇したが,80年正月には別所長治を三木城に自殺させて播磨を制圧し,11月には備前岡山の宇喜多直家を誘降して山陽における毛利氏の抵抗線を崩し,翌年因幡鳥取城を落として毛利氏の山陰の拠点を奪い,そして82年備中に侵入して高松城を囲み,毛利氏の援軍と全面的に対決することになった。しかしこの年6月信長が本能寺の変でたおれたため,秀吉は急きょ毛利側と講和を結び,中国征伐は挫折した。
執筆者:岩沢 愿彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…このころ筑前守に任ぜられ羽柴姓を称し,奉行人としての地歩を固めた。77年の中国征伐には明智光秀とともに先鋒をつとめ,播磨三木城の別所長治を討ち,81年には吉川(きつかわ)経家が守備する因幡鳥取城を陥落させ,翌年備中高松城を包囲し毛利氏との決戦を目前にしていた。このおりに信長暗殺の報に接し,直ちに毛利氏と講和を結んで兵をかえし,山崎の戦で明智光秀を破った。…
※「中国征伐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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