高穴穂宮(読み)たかあなほのみや

日本歴史地名大系 「高穴穂宮」の解説

高穴穂宮
たかあなほのみや

古事記」「日本書紀」などの文献景行天皇とその子成務天皇の宮として近淡海志賀高穴穂宮が伝えられている。(一)「古事記」成務天皇段に「若帯日子天皇、近淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」、(二)「日本書紀」景行天皇条五八年二月一一日条に「近江国に幸して、志賀に居しますこと三歳、是を高穴穂宮と謂す」、同六〇年一一月七日条に「天皇、高穴穂宮に崩りましぬ、時に年一百六歳」、(三)「国造本紀」に「志賀高穴穂朝御世」とある。これらのうち(一)が成務、(二)が景行の宮としている点は必ずしも異伝とする必要はない。(二)は景行がその晩年に高穴穂宮に移り、三年後に崩じたとする所伝であり、「日本書紀」は次に即位した成務の宮にまったく記述がないから引続き高穴穂宮に宮居したと解されるし、次いで即位した仲哀天皇の場合も、即位二年目に角鹿つぬが(越前敦賀)に幸し、「笥飯宮」を行宮とするまで高穴穂宮にあったとみられ、実質的には成務の宮と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報