高越寺庄(読み)こうつじのしよう

日本歴史地名大系 「高越寺庄」の解説

高越寺庄
こうつじのしよう

高越山(一一二二メートル)の山頂付近に建立された高越寺とその寺領が庄園化したもの。初めは京都六勝寺の一である尊勝そんしよう寺領、のちに摂関家領。のち高越庄ともいった。「山槐記」永暦二年(一一六一)八月五日条に「前阿波守説方来示付高越寺解状」とみえるのが早い。この記事には高越寺とのみあって庄号は付されていないが、この時に差出された解状の内容は、阿波守説方の妻で当時当庄領家の地位にあったとみられる兼子が、尊勝寺末寺である阿波国高越寺に対する「他人妨」を制止しようとしたもので(同書同月八日条)、論人(被告)召喚が決定されているが(同月九日条)、事件の詳細や結末などについては不詳。これらの記事から、永暦二年には本家尊勝寺、領家が前阿波守説方の妻兼子であったことが判明する。阿波守の経歴をもつ説方の妻が領家の地位にあったことから、説方が在任中に当庄の私領化を目的として尊勝寺(実質的には院)に寄進したものと推定される。阿波守説方についてはほかに所見をみないが、阿波守・尾張守を歴任した藤原時房の子に説方がいる。時房の父惟任もまた阿波守を歴任していること、系譜上一二世紀前半頃の人物とみてよいことなどから、この人物であった可能性が高い。

その後しばらくの間は当庄の動向は管見に入らなくなるが、建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家惣処分状(九条家文書)に、九条道家から子息の右大臣九条忠家に譲られた新御領の一つとして「阿波国高越寺」がみえ、本家職が尊勝寺から摂関九条家に移っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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