鮎貝城跡(読み)あゆかいじようあと

日本歴史地名大系 「鮎貝城跡」の解説

鮎貝城跡
あゆかいじようあと

[現在地名]白鷹町鮎貝

鮎貝集落の南西、最上川左岸段丘上にある連郭式の平山城。応永年中(一三九四―一四二八)鮎貝成宗の築城と伝え、本丸周囲に土塁・堀(内堀)をめぐらし、本丸に東接して二の丸、二の丸北に三の丸を配し、さらにその周囲を外堀がめぐる。さくら館とも称した。成宗の祖藤原安親は永久―大治年中(一一一三―三一)奥州藤原氏を頼って下長井に下向、当初は横越よこごしに住したと伝える。成宗の代に当地に移り鮎貝氏を称し、以後宗盛―定宗―盛宗―宗重―宗信と継ぎ、一帯に勢力を有した(「伊達世臣家譜」など)。永正六年(一五〇九)八月一一日の国分胤重軍勢催促廻文写(奥羽編年史料所収文書)によると、越後永正の乱に際して上杉定実・長尾為景方に加勢するため、伊達尚宗より「各百ケ弐百五拾迄之武頭」を率いて参陣することを命ぜられた武将のなかに鮎貝氏の名がみえる。天文七年(一五三八)の段銭古帳には鮎貝・箕和田みのわだ高岡たかおか深山みやま黒鴨くろがも栃窪とちくぼ山口やまぐちなどの名を欠くところから、これら最上川左岸一帯は鮎貝氏の在地支配が強力であったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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