日本の城がわかる事典 「鵜沼城」の解説 うぬまじょう【鵜沼城】 岐阜県各務原(かがみはら)市にあった室町時代から安土桃山時代にかけての山城(やまじろ)。尾張と美濃の国境付近、犬山城(愛知県犬山市)とは木曽川をはさんだ対岸(現在の名鉄犬山線の犬山橋北岸)の天然の岩山の上に築かれていた。永享年間(1429~40年)に、和泉国出身で美濃の土岐氏・斎藤氏に仕えた大沢薩摩守治利によって築かれたとされているが、築城年代・築城者ははっきりしていない。以後、大沢氏の居城となった。戦国時代、城主の大沢治郎左衛門は「東美濃の虎」と称される猛将で、1556年(弘治2)、斎藤義龍が父・斎藤道三を討った長良川合戦では、義龍方の主力として参戦した。尾張を統一して、桶狭間の合戦で今川氏を退け、三河の徳川氏と同盟を結んだ織田信長は、小牧山城(愛知県小牧市)に居城を移して美濃攻略を本格化させた。信長は1564年(永禄7)、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に美濃侵攻の入り口(長良川の渡河点)に立ちはだかる伊木山城(各務原市)と鵜沼城の攻略を命じた。藤吉郎は攻城戦が困難なことから、両城の調略を行って成功させた。これにより鵜沼城主の大沢治郎左衛門・主水父子は信長配下となったが、治郎左衛門に疑念を持った信長は暗殺を企て、それを察知した藤吉郎は治郎左衛門の逃亡の手引きを行ったといわれている。大沢父子はその後木下藤吉郎の家臣となった。無人の城となった鵜沼城は、その後、池田恒興、次いで中川定成が城主をつとめた犬山城の属城となった。豊臣秀吉と徳川家康が戦った1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣方の池田恒興は東美濃へ向かうと見せかけて、かつて城主をつとめた鵜沼城に入城し、中川定成の留守を見計らって犬山城を攻略した(犬山城の戦い)。この戦いの後、鵜沼城は廃城となった。城跡には旅館・城山荘があったが現在は閉鎖されている。城跡は私有地になっているため立ち入りはできない。対岸の犬山城址から、鵜沼城のあった岩山を眺めることができる。JR高山本線の鵜沼駅・名鉄各務原線新鵜沼駅から徒歩約5分。◇宇留間城、宇留馬城、志水山霧ヶ城ともよばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報