鷲田村(読み)わしだむら

日本歴史地名大系 「鷲田村」の解説

鷲田村
わしだむら

[現在地名]幸田町菱池ひしいけ

江戸初期までは村の西は菱池沼であり、集落は東の丘陵地に立地。東は大草おおくさ村、西は菱池沼開発地で幡豆はず野場のば村および野崎のざき村・永井ながい村、南は西脇にしわき村、北は萱園かやぞの(現岡崎市)と各々耕地で接する。

村域西の鷲田神明宮の伝承に元暦元年(一一八四)鷲田郷と定むと伝える。また村内の止信山正専しようせん寺は、縁起では天台僧により貞和年間(一三四五―五〇)静照せいしよう庵の建立が基と伝える。その後、文明一六年(一四八四)の如光弟子帳(上宮寺文書)には「鷲田一箇所 舟津弾正」と記す。「正専寺要集」によると、同二年に猿投さなげ(現豊田市)禰宜弾正が来村し静照庵を改め、真宗に改宗して西にしノ坊と称すとある。正専寺境内には舟津弾正慈祐の宝篋印塔がある。また西ノ坊四代但馬坊祐賢の代に三浦弾正安房が鷲田の地に来たって字東部とうべに居住したと伝えられる。時代は天文年間(一五三二―五五)という。同書はまた、鷲田の地が永禄元年(一五五八)今川義元の勢力圏になっていた頃、菱池沼対岸の野場城主山本勘助と松平元康が対陣し、今川氏は鷲田・岩堀いわぼりに対して船四五艘の軍役を命じたという。

鷲田村
わしだむら

[現在地名]熱塩加納村加納かのう

下谷地しもやち村の南、にごり川左岸の河岸段丘上平地に位置する。古く地内には鷲生山勝徳しようとく寺と号する浄土寺院があったが、正保年中(一六四四―四八)に廃絶し(新編会津風土記)、村名は同寺の寺田があったことに由来すると伝える。康安元年(一三六一)一〇月六日、青山あおやま(現喜多方市)城主佐原高明は重代相伝の加納庄内「鷲田村内中在家一宇、同空性房在家一宇」などを実相じつそう(現会津若松市)に寄進している(「佐原高明寄進状案」新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

自動車税・軽自動車税

自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...

自動車税・軽自動車税の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android