中国、北宋(ほくそう)第3代皇帝(在位997~1022)。第2代皇帝太宗の子。姓名は趙恒(ちょうかん)。太祖、太宗の前2代の時代に、唐末五代の混乱を収拾し、中央集権的体制を確立したのを受けて、発展期に入った時代である。ただ東北の遼(りょう)との関係はなお安定しておらず、1004年には聖宗の侵入を受けた。当時、遼に対しては柔硬2論があったが、親征を主張する宰相寇準(こうじゅん)に従って黄河を渡り、澶州(せんしゅう)に布陣した。この強硬策によって、04年に和議を結ぶことになり、宋は兄、遼は弟の礼をとること、銀10万両、絹20万疋(びき)を歳幣として遼に送ること、両国国境に軍事的緩衝地を設置することなどの協定が結ばれた。澶淵(せんえん)の盟である。この結果、両国は滅亡まで比較的安定したものとなった。また真宗の時代は占城稲(せんじょうとう)が輸入され、江南の生産力が増加したほか、国情の安定によって国力が増したが、有名な泰山封禅(たいざんほうぜん)をはじめとする盛んな土木工事によって国費をいたずらに使用した面もある。
[伊原 弘]
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親鸞を宗祖とする仏教教団。浄土真宗の略。親鸞は法然の浄土宗を浄土真宗とよび,自己の宗教を法然の念仏を正統に継承する往生浄土の真実の教えとした。親鸞は一宗独立の意図はなかったが,しだいに教団として発展した。一般には一向宗・門徒宗,地方によっては本願寺門徒・仏光寺門徒などとよばれた。江戸時代,親鸞が用いていた浄土真宗に宗名を統一する願いが大谷・本願寺両派から幕府に提出されたが,浄土宗側の反発もあり決着しなかった。その後1872年(明治5)大蔵省から真宗と称するよう通達がだされ,現在,真宗10派のうち本願寺派は浄土真宗,他派は真宗の名称を用いている。
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…浄土真宗(真宗ともいう)本願寺派の坊主や農民,商工業者,武士などの門徒が主導し,あるいは門徒が他の勢力と結んだり,本願寺法主に動員されたりしておこした武装蜂起,闘争の総称。1466年(文正1)から1582年(天正10)に至る約120年間にわたって,近畿,北陸,東海などの諸地域で起き,室町末~戦国時代の政治史の中で,重要な役割を果たした。…
…また,《一遍流義十二派略記》には,〈一遍上人弟子一向上人住江州番場蓮華寺建一向流義〉とあり,一向俊聖の一向派の徒を一向衆と称している。 さらに,親鸞を宗祖とする真宗の門徒もまた,一向専修を宗旨とするため一向衆と呼ばれ,時衆や一向派と混同された。本願寺第3世覚如の《本願寺親鸞上人門弟等愁申状》によると,1302年(乾元1)ころ,一向衆と号して諸国を横行し,放埒な行為を働く輩が禁遏(きんあつ)されたとき,本願寺門徒をそれと混同してはならないといっている。…
…これと並行して,越前の永平寺を中核としていた曹洞禅も,鎌倉末期に徹通義介(てつつうぎかい)が石川郡野市の大乗寺に迎えられたのを契機として伝播し,その弟子の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)による精力的な布教がはじまるが,まもなく瑩山派の拠点は能登に移った。真宗の信仰の定着を示す確実な初例は,1419年に親鸞絵伝が下付されている江沼郡熊坂荘荻生(現,加賀市荻生町)の荻生道場(願成寺)であり,この前後から高田派,三門徒派,本願寺派が競合しながら教線を伸ばしている。このうち本願寺派の門徒は,室町期を通し巧如(ぎようによ),存如によって点と線の形で確保されていたが,それが面としてのひろがりをもつのは,応仁・文明の乱のさなかの71年(文明3)に越前・加賀国境の吉崎(現,福井県坂井郡金津町吉崎)に吉崎坊を開いた蓮如のときであり,百姓のほぼ全面的な本願寺門徒化により,国人,地侍の大半も本願寺門徒のなかに身を置くこととなった。…
…だが,宣教すべき教説の内容は,〈三条の教則〉などとして定められていたから,この新しい宣教体制も仏教や講社に自由な宗教活動を認めたものではなかった。そのため,真宗を中心として宗教活動の自由を求める動きが活発となり,75年には真宗4派が大教院から離脱して,こうした宣教体制は崩壊した。仏教側のこうした自立への動向に加えて,80年から翌年にかけて,東京日比谷に設けられた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界にはげしい論争がおこり,天皇の裁定によってようやく収拾された。…
…曹洞宗では別格寺院を常恒会,片法幢会,随意会に,法地(普通寺院)を一~四に分け,その下に平僧地があった。真宗では院家,内陣,余間,飛檐,平僧に区分したのに始まり,きわめて複雑な寺格が定められ,礼金によって昇進することができた。明治維新後,それらは整理単純化されたが,現在も各宗教団に用いられている。…
…戦国・近世初期において寺院の境内として成立した都市をいう。寺院がうける特権を利用して都市を建設したもので,真宗寺院に多く,日蓮宗にもみられた。これらは戦国動乱の時代にふさわしく,濠,土居などで防御された囲郭都市であり,内部は寺院を中心に整然たる都市計画がなされている場合が多い。…
…親鸞を宗祖とする仏教の一派。略して真宗ともいう。〈浄土三部経〉(《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》)を正依の聖典とする。…
…相互扶助精神の強いことは,被差別部落の人々にきわだつ特質の一つなのである。
[信仰と伝承]
被差別部落の信仰という点では,真宗(浄土真宗)ならびに白山信仰との密接な関係があげられる。中世の末期から近世の初頭にかけての一向一揆においては,各地で少なからぬ被差別民がこれに深く関与していた。…
…たとえば新義真言宗では祖師覚鑁(かくばん)の忌日に論議を行い法門を談じる。報恩講の中で古くから最も民衆に親しまれてきたのは真宗で行われているもので,一般には〈お講〉〈お七夜〉〈ご正忌(しようき)〉などとよばれている。これはこの宗門にとって最大の年中行事で,毎年本山では11月21日から宗祖親鸞の忌日にあたる同月28日(本願寺派,高田派では太陽暦により1月9日から同月16日)まで7昼夜にわたって,また各末寺では本山とほぼ同じ時期に数日間法座を開いて宗祖の遺徳を讃嘆する。…
…そして,ついに67年(永禄10)道三の孫竜興のとき,織田信長に国を奪われ,美濃の戦国の争乱は終止符をうった。
[美濃の仏教]
中世美濃の仏教は,鎌倉時代なお天台・真言の二宗が主たる位置をしめていたが,室町時代に禅宗が土岐氏の保護をうけ興隆し,ややおくれて浄土真宗が各地に形成されつつあった惣村のなかに浸透し,戦国時代には民衆にささえられた真宗王国が築きあげられた。土岐氏の初代守護土岐頼貞は無学祖元に深く帰依し,定林寺(じようりんじ),永保寺,竜門寺などの開基となり,以後の美濃における禅宗興隆の基礎をかためた。…
…本来は門下につらなる人の意味で,門人,門葉と同義であるが,日本では古くは本寺配下の末寺寺院,僧徒をさし,さらに真宗(一向宗)が発展してくると,この宗派の在俗信者をさす言葉として使われることが多くなった。そのため真宗は門徒宗ともいわれている。…
※「真宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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