加納村(読み)かのうむら

日本歴史地名大系 「加納村」の解説

加納村
かのうむら

[現在地名]氷見市加納・鞍川くらかわ中央町ちゆうおうまち幸町さいわいちよう諏訪野すわの栄町さかえまち

上庄かみしよう川下流北岸に位置し、北西部は丘陵が連なり、その内側に広い平野が広がる。東方は海岸に面する。俗に氷見一〇〇ヵ村といわれるなかで最大の草高一千石以上をもつ大村で、歴代の十村の居村でもあった。文禄四年(一五九五)の氷見庄加納村等指出写(加越能文庫)によれば二万七千八五八俵二斗五升であった。ただし一俵が五斗入であったから一千三七九石二斗五升となる。元和(一六一五―二四)以後、下古河しもふるかわ・上古河が開墾され一一五石が増収となった(「大屋敷御代官所御指出書」越中古文書)正保郷帳では高一千七三二石、田方一〇八町三反余・畑方七町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一千八九一石・免五ツ六歩、寛文元年より同四年の新田高二一石で、同免、小物成は山役一〇三匁・蝋役一匁・塩竈役六六匁、地子銀六〇匁(ほか一一石退転)、猟船櫂役二五匁(退転)、網役三三匁・塩役一一一匁二分・油役六匁(三箇国高物成帳)


加納村
かのうむら

[現在地名]清武町加納・池田台いけだだい

船引ふなひき村の東にある。村内を八重やえ川が東流し、北部・南部は小高い丘陵地となっている。南丘陵部には中世の清武城跡があり、現在のかみ中野なかのには清武地頭所(中野地頭所)が置かれ、中世以来の要衝の地で、江戸時代は飫肥藩領清武郷支配の拠点。南の木原きわら村から北上する飫肥おび街道は当村内に入り、上中野を経て下加納追分しもがのうおいわけで薩摩街道を合流、北東に折れる。中世には国富くどみ庄のうちにあって賀納とも記され、北加納・南加納の呼称もみえる。江戸時代は飫肥藩領清武郷に属した。「日向地誌」によると、当村はかつて南・北に分れていたが、慶応元年(一八六五)合併して一村になったという。

建久図田帳に八条女院領国富庄の一円庄を構成する郷の一つとして「加納二百丁」がみえ、地頭は平五であった。南北朝初期、加納八〇町は伊東祐重の所領となっている(日向記)。その後、加納は伊東氏一族の清武氏の所領となったが、文安五年(一四四八)清武祐恩の死去によって清武氏の嫡流が断絶すると、伊東祐尭は祐恩の弟祐憲から加納・舟曳ふなひきなど五ヵ所を獲得し、伊東氏家督の知行とした(同書)。戦国期の伊東氏領下の社領を書上げた弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に、さんみよう(現国富町)の倉田(衾田か)大宮司分として「賀納」の一反の田が付けられていた。


加納村
かのうむら

[現在地名]東大阪市加納など

若江郡に属し、北は讃良さらら三箇さんが村・御供田ごくでん(現大東市)、東は恩智おんぢ川、南は河内郡水走みずはい村・今米いまごめ村・吉原よしはら村。大和川付替えにより村内を流れていた吉田よした川の水量が減少し、川床に川中かわなか新田が開発されたため、新田の東が加納村飛地となった。建長四年(一二五二)六月三日の藤原康高処分目録案(水走文書)に「在河内郡八条曾禰崎里卅六町内」とみえ、その注記に「自堤内南水走里」とある。水走里は水走村一帯と考えられるので、「曾禰崎里」は加納付近にあたる。


加納村
かのうむら

[現在地名]和歌山市加納・六十谷むそた

名草なくさ郡に属し、北は六十谷村の南部と接する紀ノ川北岸部を村域に含み、南は太田おおだ出水でみず両村境に至り、村域は南北に細長い。河南部は東西に通る大和街道(大坂街道)によってさらに南北に分れ、北部分を用水路が西流する。古来紀ノ川は河道の変動が激しく、当地は平安時代には河中の島であったと思われる。

建武三年(一三三六)一二月二七日付光厳上皇院宣(壬生家文書)にみえる主殿寮領九ヵ所のうちに「紀伊国六十谷加納」とある。六十谷の地は鎌倉時代中期頃に荘園化したと考えられるが(→六十谷村、六十谷(庄)からの加納田の地が地名となったものであろう。


加納村
かのうむら

[現在地名]羽島市正木町大浦まさきちようおおうら

大浦村の東、木曾川西岸沿いにあった新田村。江戸時代には東岸の尾張藩領おこし(現愛知県尾西市)に付属していた。永禄八年(一五六五)一一月三日の坪内惣兵衛宛判物(坪内文書)によると、加納の八七貫文が織田信長から坪内惣兵衛ら三人に宛行われており、同年一二月日の惣兵衛宛判物(同文書)には、加納村の年貢を惣兵衛に与えるとともに、小物成と闕所地も調査の完了次第、給付するとある。本途物成と小物成を別途扱いしている点が注目される。この加納村について、「濃州徇行記」は「昔時村落ありて今の木曾川内も田畝なりしが、慶長十三年申年木曾川筋瀬違の後は村落潰れ川となり、僅に西岸の方に加納村の地遺り荒野となりしを、其後新田を開墾して加納新田と称し来りしと云」と記し、明暦覚書に「此村野方ニて百姓無之ニ付、尾州起村へ引得、起之百姓年貢納所仕候」とある。


加納村
かのうむら

[現在地名]南伊豆町加納

下加茂しもがも村の西、二条にじよう川が青野あおの川に合流する場所に位置する。もとは二条村・石井いしい村を含め一村であった。長禄四年(一四六〇)一〇月、鎌倉浄智じようち寺領の「加納郷」を布施貞基が押領したため寺家より訴訟が起こされ、寛正三年(一四六二)四月一六日、将軍足利義政はこの件を上杉家雑掌加藤某が扱うよう命じた(蔭涼軒日録)。伊豆国が上杉氏(山内家)領国であったことによる処置であろう。北条氏所領役帳には伊豆衆の清水太郎左衛門(康英)の役高として三七〇貫文「加納」とみえ、康英は伊豆衆のうちでも最高の貫高八〇〇余貫をもち、なかでも当地が最大であった。


加納村
かのうむら

[現在地名]豊田市加納町

かご川に接し、北側と西側は猿投山麓に続く。村域には古墳が多く、寄元よりもと古墳(滅失)藤山ふじやま第一―四号墳、うえだん古墳などがある。

文和三年(一三五四)の中条秀長寄進状(猿投神社文書)に「猿投社塔婆料所参河国高橋庄北方加納郷」とみえ、高橋たかはし庄北方支配地に加納郷が含まれている。また同年の中条秀長下知状(同文書)によると、加納郷柿木垣内一町を猿投神社に寄進している。明徳四年(一三九三)の中条詮秀寄進状(同文書)には、中条詮秀が猿投神社の末社八幡神社に対して、加納郷・舞木まいき郷のうち田二反を修理料として寄進している。


加納村
かのうむら

[現在地名]神戸町加納

大垣おおがき輪中の北部に位置し、北は前田まえだ村。村名は庄園の付属地としての加納に由来するという(神戸町史)。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)四月一九日条に美濃国として「大井戸加納」の名がみえ、大井おおい庄に近いことから当地のこととされる(新撰美濃志)。年月日未詳の龍徳寺々領目録控(龍徳寺文書)に「(平野) 加納」二二貫文の地は龍徳りようとく(現揖斐郡池田町)領とある。


加納村
かのうむら

[現在地名]長浜市加納町

北田附きたたづけ村の北にあり、西は辰巳たつみ村。もと榎木加納えのきかのう庄のうち。天正一三年(一五八五)閏八月二一日の山内一豊知行目録(山内文書)に加納とあり、高七八〇石。寛永石高帳に高八〇二石余とあり、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で五ツ七分。元禄八年大洞弁天寄進帳では男一九六・女二〇八、寺社方男六・女四。「木間攫」によれば、当村主加納弥八郎は京極氏・浅井氏の将であったという。旧村社白山神社は天長五年(八二八)の創立で、正和元年(一三一二)社殿再建と伝える。


加納村
かのうむら

[現在地名]柏崎市加納

東は鯖石さばいし川を挟んで善根ぜごん村、西は南下のうげ村、北は安田やすだ村。佐橋さばし庄の南限に位置したと考えられる。年未詳の毛利元春自筆事書案(毛利家文書)に「越後国佐橋庄南条七ケ条」とあるなかに「庄屋・カンナウ二ケ条」がみえ、毛利時親の嫡孫親衡に分割されている。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図の加納村高二三三石余、日影ひかげ村高一三七石余、青木あおき村高九一石余、小黒おぐろ村高一二〇石余が当村にあたる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高五八三石四斗余で、これは日影村・小黒村・青木村を合したものと推定される。


加納村
かのうむら

[現在地名]大沢野町加納

大沢野中位段丘中央西端に位置し、北は西塩野にししおの村、南は稲代いなしろ村、東は高内たかうち村、西は岩木いわき村。富山藩領。慶応三年(一八六七)から大沢野用水の開削事業が開始され、明治元年(一八六八)に完通。


加納村
かのうむら

[現在地名]神崎町加納

寺野てらの村の北、越知おち川下流右岸に位置する。神東じんとう郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は粟賀あわが村と同じ。正保郷帳では田方二四〇石余・畑方二二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の加納村の言及

【熱塩加納[村]】より

…福島県北西部,耶麻郡の村。1954年熱塩・加納両村が合体して成立。人口3871(1995)。会津地方北端を占め,北は飯豊連峰を隔てて山形県に接する。熱塩の地名は村内に熱湯の湧出することに由来すると伝えられ,現在も熱塩温泉(純食塩泉,61℃)があり,椿彫木彩漆笈(重要文化財)を有する示現寺もある。加納には慶長年間(1596‐1615)に開発された岩尾銀山があり,明治期には銅山として再掘され加納鉱山と呼ばれた。…

※「加納村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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