鷹司兼平(読み)たかつかさ・かねひら

朝日日本歴史人物事典 「鷹司兼平」の解説

鷹司兼平

没年永仁2.8.8(1294.8.30)
生年:安貞2(1228)
鎌倉中期の公卿。五摂家のひとつ鷹司家の祖(家名は京都鷹司室町に邸宅があったことによる)。父は関白近衛家実,母は従二位藤原忠行の娘。10歳で元服して正五位下右近衛少将に任官。翌年には1年のうちに4度も昇進して従二位権大納言兼右近衛大将になった。このあと内・右・左大臣を経て,建長4(1252)年,兄近衛兼経のあとをうけて25歳の若さで摂政,氏長者となる。前年12月鎌倉で謀反計画が発覚し,鎌倉幕府将軍藤原頼嗣は更迭された。頼嗣の祖父九条道家はこの報を聞いて急死し,右大臣九条忠家も事件への関与を理由に辞任させられた。ライバルである九条家が没落すると近衛家の力は相対的に増大した。近衛家の正嫡ではない兼平が氏長者の座を手中にできたのはこのことと無縁ではない。弘長1(1261)年にいったん官を辞すが,文永5(1268)年から同10年までは嫡子基忠を摂関地位に据え,建治1(1275)年には再び自ら摂政,氏長者となって弘安10(1287)年までその任にあった。合計すると23年もの間,摂政,関白の地位を独占していたわけで,きわめて珍しい事例である。九条家の凋落が甚しかったこと,近衛本家の基平(兼平の甥)が早世したことも見逃せないが,兼平自身が処世の術にたけた人物だったのだろう。このころの朝政の実権上皇のもとにあったが,兼平は建治年間から弘安初年にかけて,亀山上皇をさしおいて政務をみたこともあったようだ。ただしそれは何ら新味のないもので,やがて亀山上皇の勢力が台頭するとともに兼平の発言権は失われていく。正応3(1290)年に出家,法名覚理。称念院殿と称される。朝政を主導した最後の摂関であった。

(本郷和人)

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改訂新版 世界大百科事典 「鷹司兼平」の意味・わかりやすい解説

鷹司兼平 (たかつかさかねひら)
生没年:1228-94(安貞2-永仁2)

鎌倉中期の公卿。鷹司家の始祖。関白近衛家実の四男。11歳で従三位に昇り,連年累進して内大臣,右大臣を歴任し,19歳で左大臣に進んだ。1252年(建長4)兄近衛兼経の譲をうけて摂政に補され,その年末には太政大臣に任ぜられて,翌年正月後深草天皇の元服の加冠役を奉仕した。ついで関白となり,61年(弘長1)これを一条実経に譲ったが,75年(建治1)再び摂政に任ぜられ,ついで関白に移った。こうして前後23年の長きにわたって執政の任にあったが,87年(弘安10)関白を二条師忠に譲り,90年(正応3)63歳をもって出家し,覚理と称した。没年67歳。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鷹司兼平」の解説

鷹司兼平 たかつかさ-かねひら

1228-1294 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
安貞2年生まれ。近衛家実の4男。宝治(ほうじ)2年従一位。建長4年摂政,太政大臣,6年関白となり弘長(こうちょう)元年辞任。建治(けんじ)元年ふたたび摂政,弘安(こうあん)元年から10年まで関白。称念院入道前関白とよばれる。五摂家のひとつ鷹司家の祖。日記に「称念院関白記」がある。永仁(えいにん)2年8月8日死去。67歳。

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世界大百科事典(旧版)内の鷹司兼平の言及

【鷹司家】より

…藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。近衛家実の四男兼平を始祖とし,家号は兼平の殿第が鷹司室町にあったのに由来するが,また楊梅小路に面した猪隈殿をも伝領したため,楊梅の称もある。鎌倉時代の初めから近衛・九条両家の対立が激しくなったが,承久の乱後,九条道家とその3人の子が相ついで摂関の地位を占め,九条家の全盛をほこった。しかし1246年(寛元4)に起きた前将軍藤原頼経(道家の男),名越(北条)光時らの謀反陰謀事件により,道家とその男摂政実経が失脚し,近衛兼経が摂政に再任されて,近衛家の得意時代を迎えた。…

※「鷹司兼平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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