日本歴史地名大系 「黒子村」の解説 黒子村くろごむら 茨城県:真壁郡関城町黒子村[現在地名]関城町黒子大谷(おおや)川右岸にあり、東は西保末(にしほずえ)村、南と西は辻(つじ)村。千妙(せんみよう)寺の門前を中心に発達した町場的集落。中世は下妻庄黒子郷と称され、康永三年(一三四四)二月の別府幸実軍忠状(集古文書)に「一、同(康永二年)八月廿三日合戦之時被疵被射通右足踝、矢尻折留之間、度々雖及(ママ)死、終以不去於陣中、或出若党・中間、或出良従・家子、致兵船黒子已下所々警固訖」とあり、南北朝動乱期の関(せき)城、大宝(だいほう)城(現下妻市)の合戦では当村に足利方の基地が設置されていた。 黒子村くろこむら 静岡県:榛原郡相良町黒子村[現在地名]相良町黒子男神(おかみ)村の西に位置し、南は萩間(はぎま)川を境に女神(めかみ)村。年月日未詳の平田寺領坪付(平田寺文書)によると、建武四年(一三三七)一〇月三日平田(へいでん)寺の塔頭霊松(れいしよう)庵に寄進された大依(おおより)村の田畠のうち二反は黒子村の西にあった。文禄二年検地高目録では高一六八石余。江戸時代の領主の変遷は大寄(おおより)村と同じ。正保郷帳では田方七五石余・畑方三六石余、ほかに観音寺(現曹洞宗)領三石・宇佐八幡(現大江八幡宮)領四石五斗がある。元禄郷帳では高一二五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by