肩背郷(読み)かたせごう

日本歴史地名大系 「肩背郷」の解説

肩背郷
かたせごう

和名抄磐梨いわなし郡肩背郷の郷名を継ぐか。現瀬戸町肩背を遺称地とし、一帯に比定される。嘉慶二年(一三八八)の備前国斗餅田注文(八坂神社文書)に郷名がみえ、熊野本宮斗餅田一町八反があった。応永二五年(一四一八)八月、京都東寺の造営棟別銭が賦課され「肩背かたせ郷」は異議なく納めている(「備前国棟別銭注文案」東寺百合文書)。応永三四年一〇月、もと備州金剛寺にあった建長四年(一二五二)一二月鋳造の梵鐘が、当郷徳王寺の所有に帰している(「徳王寺古鐘銘」妙覚寺蔵)。文明一七年(一四八五)分国回復のため山名氏と戦っていた守護赤松政則は、播磨国蔭木城攻撃に先立って春日明神冥助を祈念したところ、神鹿が出現して敵の城中に入り攻略できたことや、摂津兵庫関庄主奈良興福寺の唐院侍者藤春房が赤松方の落人を扶持し、この年の出兵には船を仕立てて送り出したことなどから、「春日社備州肩背郷」のうち都染尾張分の灯油料田を興福寺に寄進した(「多聞院日記」同年四月一〇日条)


肩背郷
かたせごう

「和名抄」諸本に「加多世」の訓がある。「続日本紀」天平神護二年(七六六)五月二三日条に上道郡から物理もとろい・肩背・沙石さいし三郷を他郡の三郷とともに藤野ふじの(のちの和気郡)に隷せしめたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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