磐梨郡(読み)いわなしぐん

日本歴史地名大系 「磐梨郡」の解説

磐梨郡
いわなしぐん

和名抄」東急本(国郡部)刊本に「伊波奈須」と訓がある。近代の訓は「イハナシ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。「和名抄」刊本・東急本は和気わけ石生いわなす珂磨かま肩背かたせ礒名いそな物部もののべ物理もとろいの七郷を記し、高山寺本では物部郷を欠く。いずれにせよ令制の区分では下郡にあたる。郡内に式内社は存在しない。東は吉井川で和気郡と境し、北から西は赤坂あかさか郡、南は上道郡と接していた。現在の和気郡和気町・佐伯さえき町と赤磐あかいわ熊山くまやま町域の吉井川西岸部、および同郡瀬戸せと町全域と同郡吉井町の一部にあたる。この地域には古墳時代に三〇メートル級の前方後円墳、またはそれと推定されているものが幾つかある。八幡宮はちまんぐう古墳(佐伯町)石根依立神社西いわねよりたてじんじやにし古墳・大明神だいみようじん古墳(和気町)小丸山こまるやま古墳(熊山町)などがそれであるが、古墳時代を通じて強大な勢力をもつ大首長は存在しなかった。このことが後述するように八世紀代に急速に氏族として発展した和気一族の勢力範囲に組込まれる理由でもあった。なお、郡域内に白鳳期建立の法隆寺式に近い伽藍配置をもつ吉岡よしおか廃寺(瀬戸町)がある。石生天皇いわぶてんのう遺跡(和気町)は八世紀末から九世紀の製鉄遺跡である。

〔古代〕

当郡は備前国東南辺部の郡界変遷のなかで延暦七年(七八八)に成立した新立郡である。「続日本紀」によってその事情を摘記すると次のとおりである。天平神護二年(七六六)五月二三日条では、それまで三郷で人口も少ない藤野ふじの郡が山陽道の駅路にあたっていて負担が重く住民が苦しんでいるので、新たに邑久おく郡の香登かがと(香止)郷、上道郡の物理郷・肩背郷・沙石さいし郷、赤坂郡珂磨郷佐伯郷を加えて九郷とし、さらに美作国勝田かつた郡の塩田しおた村をも隷せしめたとある。神護景雲三年(七六九)六月二九日条では、この藤野郡を和気郡に改称する。延暦七年(七八八)六月七日条では、和気郡内の吉井川以西の住民一七〇余人が和気清麻呂を通して磐梨郡の新立を求める。その内容は、和気郡の郡治(郡家)が吉井川東岸部の藤野郷にあるため、河西の住民は公役のため吉井川を渡らなければならないが、大河のため渡河に難渋して公的負担を果せないことも多い。そこで河西の和気郡域を分離して磐梨郡を立てて河西の住民の便宜を図り、一方、河東にある藤野駅を河西に移して住民負担の均等化を図りたいというものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報