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備前国 びぜんのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

備前国
びぜんのくに

現在の岡山県東部。山陽道の一国。上国。古くは吉備国の一部であった。『旧事本紀』によれば,応神天皇のとき上道 (かむつみち) ,大伯 (おほく) ,三野 (みの) の3国造が置かれたという。氏族としては吉備氏が分かれたものとみられ,のちには備前国東部に和気氏が台頭した。

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デジタル大辞泉の解説

びぜん‐の‐くに【備前国】

備前

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百科事典マイペディアの解説

備前国【びぜんのくに】

旧国名。山陽道の一国。現在の岡山県南東部。もと吉備(きび)国。《延喜式》に上国,8郡。国府は現在の岡山市。早くから開け,荘園が多く,中世の守護は土肥氏以後しばしば交替,末期に宇喜多氏が支配。
→関連項目岡山[県]中国地方

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

びぜんのくに【備前国】

現在の岡山県東南部を占めた旧国名。古く吉備(きび)国から、備前国、備中(びっちゅう)国(岡山県西部)、備後(びんご)国広島県東部)に分かれた。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の岡山市、国分寺は赤磐(あかいわ)市におかれていた。鎌倉時代に多くの東国御家人が移住した。室町時代には赤松氏が、戦国時代には宇喜多(うきた)氏が支配した。近世には池田氏が備前国のほか備中国の一部も合わせて岡山藩を支配した。1871年(明治4)の廃藩置県で岡山県となり、1875年(明治8)に小田(おだ)県(備中国)を、1876年(明治9)に北条(ほうじょう)県(美作(みまさか)国)を合併して現在の岡山県となった。◇備前国、備中国、備後国を合わせて備州(びしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

びぜんのくに【備前国】

旧国名。現在の岡山県の東南部。
【古代】
 山陽道に属する上国(《延喜式》)。7世紀後葉の天武朝ころに吉備国が分割されて備前,備中,備後となった。713年(和銅6)に備前北部の6郡を割いて美作国がおかれ,邑久(おおく),赤坂,上道(かみつみち),御野,津高,児嶋の6郡となったが,721年(養老5)藤原郡(のち藤野郡さらに和気郡と改称),788年(延暦7)磐梨(いわなす)郡がおかれて8郡となった。国府は岡山市国府市場(こくふいちば)付近と推定され,国分寺は山陽町馬屋(まや)に確かめられ,国分尼寺は山陽町穂崎付近に比定されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

備前国
びぜんのくに

岡山県の南東部の旧国名。東は播磨(はりま)、西は備中(びっちゅう)、北は美作(みまさか)に接し、南は瀬戸内海に臨む。吉備(きび)国の一部で、天武(てんむ)朝(672~686)のころ備前、備中、備後(びんご)に分割され、ついで713年(和銅6)備前は北部6郡を分割され美作が新設された。分割当時の備前国は、邑久(おおく)、上道(かみつみち)、赤坂、御野(みの)、津高(つたか)、児島(こじま)の6郡であったが、721年(養老5)邑久・赤坂の両郡の一部を割いて藤原郡(のちに藤野郡)が置かれ、ついで788年(延暦7)藤野郡を吉井川を境に磐梨(いわなす)郡と和気(わけ)郡に分割して8郡となった。近世には上道郡を上東(じょうとう)郡と上道(かみみち)郡に分け備前9郡の時期もあった。備前の国府は上道郡の現岡山市中区国府市場(こくふいちば)に置かれ、国分寺は赤坂郡の現赤磐(あかいわ)市馬屋(まや)に建立された。一宮(いちのみや)は平安時代は現岡山市東区西大(さいだい)寺一宮の安仁(あに)神社、のちに現岡山市北区一宮の吉備津彦(きびつひこ)神社がこれにかわる。古代の山陽道は、播備国境の坂長から珂磨(かま)、高月、津高を経て備中に入った。中世には南下し三石(みついし)、片上(かたかみ)、福岡、藤井、辛川(からかわ)を経て備中へ、近世には藤井から岡山城下を経、万成(まんなり)坂を越える道にかわった。『和名抄(わみょうしょう)』によると、平安中期の水田面積は3185町7反32歩。『延喜式(えんぎしき)』によると、特産物は胡麻(ごま)、鹿革(しかがわ)、陶器、魚、塩など。奈良末期から鎌倉初期に、旭川、吉井川の河口に、鹿田荘(しかたのしょう)、野田荘、荒野荘、豊原荘、福岡荘、金岡(かなおか)荘などの大荘園はじめ多くの荘園が開発された。
 鎌倉時代には、佐々木、長井、松田、石橋ら多くの関東武士が移住し守護・地頭(じとう)となった。南北朝以後、播磨守護赤松氏が備前守護を兼ねたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以後、山名氏の所領となった。赤松政則(まさのり)が赤松氏を再興して旧領を復したが、政則没後は衰え、浦上(うらがみ)、松田の両氏が台頭し、やがて浦上宗景の家臣宇喜多直家(うきたなおいえ)が備前を統一し1573年(天正1)岡山に築城した。室町・戦国のころ、牛窓(うしまど)港は商業貿易で栄え、福岡は六斎市(ろくさいいち)(福岡市)が発達し、また長船(おさふね)とともに備前刀の産地として栄え、また和気郡伊部(いんべ)は備前焼の産地として発展した。
 直家の子秀家は豊臣(とよとみ)秀吉の猶子(ゆうし)となり、備前・美作および備中・播磨の一部を領し、新規に岡山城を築き、旭川を付け替え城下町を整備した。関ヶ原の戦い(1600)により宇喜多氏は滅び、小早川秀秋(こばやかわひであき)がこれにかわったが、1603年(慶長8)断絶し、姫路藩主池田輝政(てるまさ)の次男忠継(ただつぐ)が備前に封ぜられた。1616年(元和2)忠継が死去し弟忠雄(ただかつ)が淡路から移ったが、1631年(寛永8)若死にしたため、忠雄の子光仲(みつなか)は鳥取へ、鳥取藩主池田光政が備前へ移された。光政は儒教を信奉し、その理念に基づいて藩政を改革し教育を振興し、光政の子綱政(つなまさ)もその後を受け、閑谷黌(しずたにこう)、後楽園、藩営大新田をつくり藩政を整備した。その子孫は藩主を世襲して明治維新に至った。
 廃藩置県で備前は岡山県となり、県令高崎五六を迎え1875年(明治8)備中の小田県、翌年美作の北条県をあわせて今日の岡山県となった。[柴田 一]
『谷口澄夫著『岡山県の歴史』(1970・山川出版社)』

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