備前国(読み)ビゼンノクニ

デジタル大辞泉 「備前国」の意味・読み・例文・類語

びぜん‐の‐くに【備前国】

備前

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日本歴史地名大系 「備前国」の解説

備前国
びぜんのくに

古代

〔国の成立〕

吉備国を備前・備中・備後の三国に分割することによって成立した国で、当初は美作地方をも含んでいた。「和名抄」に「岐比乃美知乃久知」の訓もあるが、早くから「ビゼン」と音読されている。三国への分割、すなわち備前国の成立の時期については二説がある。備前国の初見は「続日本紀」文武天皇元年(六九七)閏一二月七日条であるが、備後国については「日本書紀」天武天皇二年(六七三)三月一七日条にみえる。一方、同書同八年三月九日条に「吉備大宰」の地位にあった石川王が「吉備」で薨じたとの記事や、同一一年七月二七日条に吉備国が不作であったとの記事もある。これらの記事から、一説では天武天皇二年紀の備後国の用字を追記とみて否定し、同一一年から文武天皇元年までの間に吉備の分国が行われたとする。今一つの説は、天武天皇二年紀の備後国の記事を重視し、以後吉備とみえる記事は、吉備地域を中心に置かれていた統轄的な地方官司である吉備大宰や吉備総領との関係からのものであるとする。「日本書紀」に大王権力に対する三種の吉備氏反乱伝承が載る吉備地域に対して、大王権力が一貫して分断政策を行っていること、また天武天皇元年の壬申の乱時に、一時近江方が吉備地域を支配したことなどからみると、壬申の乱の直後に吉備地域の分割が行われた可能性が強い。

〔国界・郡界の変化〕

備前国は八世紀を通じて国界や郡界の変化の著しい国である。「続日本紀」によって事情を摘記すると次のとおりである。和銅六年(七一三)四月三日に、英多あいた勝田かつた苫田とまた久米くめ大庭おおば真島ましまの六郡を割いて美作国が新立される。養老五年(七二一)四月二〇日には赤坂あかさか邑久おく両郡の郷を割いて藤原ふじわら郡を置き、神亀三年(七二六)一一月二六日その郡名を藤野ふじの郡に改めた。天平神護二年(七六六)五月二三日、それまで三郷だった藤野郡に対して邑久・赤坂・上道かみつみち三郡から六郷を割いて九郷とし、同時に美作国勝田郡の塩田しおた村をも隷せしめ、神護景雲三年(七六九)六月二九日藤野郡の郡名を和気わけ郡に改称する。延暦七年(七八八)六月七日和気郡のうち吉井川西岸地域を分離して磐梨いわなし郡を建てた。以上の経過からすると、和銅六年段階では美作国となる六郡を含めて赤坂・邑久・上道・御野みの津高つだか児島こじまの一二郡であったが、延暦七年以後は、分立した美作国の六郡を除き、新立された和気・磐梨二郡を加えて八郡となったわけで、この郡数は「和名抄」「拾芥抄」の段階でも変わらない。

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改訂新版 世界大百科事典 「備前国」の意味・わかりやすい解説

備前国 (びぜんのくに)

旧国名。現在の岡山県の東南部。

山陽道に属する上国(《延喜式》)。7世紀後葉の天武朝ころに吉備国が分割されて備前,備中,備後となった。713年(和銅6)に備前北部の6郡を割いて美作国がおかれ,邑久(おおく),赤坂,上道(かみつみち),御野,津高,児嶋の6郡となったが,721年(養老5)藤原郡(のち藤野郡さらに和気郡と改称),788年(延暦7)磐梨(いわなす)郡がおかれて8郡となった。国府は岡山市中区国府市場(こくふいちば)付近と推定され,国分寺は赤磐市の旧山陽町馬屋(まや)に確かめられ,国分尼寺は旧山陽町穂崎付近に比定されている。国内を東西に山陽道が貫通し,東から坂長,珂磨(かま),高月(たかつき),津高(つだか)の4駅がおかれた。

 吉備は畿内地域とならぶ古代の先進地帯であり,備前にも著名な古墳が多い。発生期のものとしては舶載鏡13面を出土した前方後方墳の湯迫(ゆば)車塚をはじめ七つ(ぐろ)古墳群があり,4~5世紀代には,墳丘長192mで周湟,周庭帯をもつ5世紀後半の両宮山や,神宮寺山,金蔵山,湊茶臼山などの100mクラスの大古墳がある。これらの大古墳は一定地域に累代にわたって造営されており,比較的安定した首長勢力の存在を物語っている。これらの首長勢力としては,上道臣,御野臣,薗臣などの吉備氏一族と,それ以外の吉備海部直(あまべのあたい)などを復元しうる。このうち上道氏は《日本書紀》には雄略7年の田狭(たさ)の反乱や清寧即位前紀に見える星川皇子の乱など,ヤマトの大王に対する反乱伝承を残している。6世紀代になるとヤマト王権の吉備進出が活発となり,蘇我氏の領導のもとに児嶋屯倉(みやけ)が設置され,王権の直轄地である県(あがた)も上道,御野,薗におかれ,部民も大規模に設定された。この過程で有力首長たちも上道国造,御野国造,大伯(おおく)国造などの官僚的地位に組織された。有名な和気清麻呂の本拠は和気郡付近にあるが,和気氏は6世紀以降の新興豪族とみられる。現存する〈津高郷陸田売買券〉6通は8世紀中葉の村落生活を示す貴重な史料である。また平城京などで出土した木簡によって,中央へ塩,鉄,魚などを貢納していたことが知られる。式内社中とくに吉備津彦神社安仁(あに)神社は著名である。平安時代には摂関家渡領の一つ鹿田(かた)荘など大荘園も設置された。
執筆者:

平正盛・忠盛父子の備前守在任中に,備前の土豪,とくに瀬戸内沿岸部の海賊的土豪(難波二郎経遠・三郎経房兄弟がその代表)は完全に平氏の被官化した。そのため備前の名族の多くは平氏の没落に殉じ,代わりに大量の関東御家人が勲功の賞として地頭職を与えられて入部してきた。守護は一ノ谷の戦後に土肥実平が備前,備中,備後3ヵ国を兼帯したが,その後,藤戸合戦の勲功で児島に地頭職を得た近江の佐々木高綱が備前守護となった。のちに一時期,幕府吏僚の長井泰重(大江広元の孫,六波羅評定衆)に代わったが,鎌倉末期には守護は佐々木(加地)氏に復していた。

 南北朝期には,東国出身の国人松田氏や,足利氏支族の細川氏が守護になったが,1365年(正平20・貞治4)に松田氏に代わって播磨守護赤松則祐(そくゆう)が備前守護を兼ね,義則,満祐と子孫がその職を継いだので,国人土豪は赤松氏の被官化し,また浦上氏などの播磨の武士が流入して赤松氏の領国化した。赤松氏は福岡に守護所をおき,備前を東西に2分して浦上,松田両氏をそれぞれ守護代としたが,嘉吉の乱で没落した。代わって山名教之が戦功の賞として備前守護職を得たが,南朝の遺臣たちに奪われた神璽奪回の勲功によって赤松政則が赤松氏を再興したとき,政則は備前新田荘を所領として与えられ,入部をめぐって山名教之と紛争を起こした。応仁・文明の乱に赤松政則は東軍に属し,播磨に下国して播磨,備前,美作の旧領3ヵ国を回復して守護に任ぜられた。1484年(文明16)から88年(長享2)にわたる山名政豊の播磨,備前への侵入は旧領奪回をねらったものであったが,失敗した。

 政則の死後赤松氏が衰えると,代わって三石城を本拠とする浦上氏が台頭し,浦上村宗は主君赤松義村を幽閉暗殺して実権を握り,細川高国を擁して上洛し覇権を掌握しようとしたが,義村の子政村(のちの晴政)が三好元長に内応したことにより摂津大物(だいもつ)で敗死した。村宗の子宗景は本拠を三石城から天神山城に移したが,凡庸で家臣宇喜多直家に権力を奪われた。直家は毛利,織田両勢力の対立を利用しつつ,備中の三村氏を滅ぼし,備前を中心にその周辺地域(備中東部,美作南部,播磨西部)を支配下に収めて戦国大名として自立したが,間もなく病死し,子秀家は羽柴(豊臣)秀吉に養われて,のちに豊臣政権下の五大老のひとりとなった。

備前は吉井川,旭川の二大河川の肥沃な平野に恵まれ,豊原荘,金岡荘,福岡荘,鹿田荘,野田荘,香登(かがと)荘ほかの著名な大荘園が多く成立した。豊原荘は皇室領で,邑久郡6ヵ所にまたがる大荘であり,荘内に安仁神社や弘法寺,蓮華寺などがあった。地頭は今木氏,大富氏で,児島,和田両氏もその一党らしい。金岡荘は吉井川の河口にあり,東西両荘に分かれ,東荘は奈良西大寺末寺の額安寺に寄進され,その影響で備前西大寺が成立する。福岡荘は南北両荘の大荘で,その市庭(いちば)は《一遍聖絵(いつぺんひじりえ)》に描かれ,今川貞世(さだよ)(了俊)の《道ゆきふり》にも繁栄ぶりが記されており,守護所でもあって一国の政治経済の中心であった。鹿田荘は摂関家の殿下渡領で,旭川の河口近くにあり,鎌倉末期に市場があった。野田荘は東大寺領で荘内に広瀬市(ひろせのいち)があった。香登荘,鳥取(ととり)荘,長田荘,三野新荘などはいずれも皇室領であった。なお小豆島(しようどしま)は中世までは備前に属していた。1193年(建久4)東大寺再興の料国として備前が俊乗房重源(ちようげん)に預けられたことがある。その期間は10年余にすぎないが,荒野を開拓して野田保を東大寺領野田荘としたほか,南北条荘,長沼荘,神前(かんざき)荘などを東大寺領とし,金山(かなやま)寺ほか諸寺を修造し,播磨へ越す船坂峠を改修し,豊原荘の豊光(ぶこう)寺に湯屋を建てるなど,その事跡は著しい。東大寺の用瓦を焼いた瓦窯が万富(まんとみ)で確認されている。

 忌部(いんべ)を中心とする備前焼はその堅牢さのゆえに,とくに甕,壺,擂鉢(すりばち)などの日用雑器として普及し,また長船(おさふね)物を代表とする備前鍛冶備前物)の作刀は古来名高く,鎌倉時代には福岡一文字派,南北朝時代には長船派の兼光(かねみつ)がとくに名工として知られる。福岡市(ふくおかのいち)のほか鹿田荘市,西大寺市,野田荘広瀬市などの市場があったように産業経済が早くから発達しており,牛窓港は応仁の乱で焼亡した兵庫に代わって遣明船の母港となったこともある。牛窓には日蓮宗寺院本蓮寺があり,ここからいわゆる〈備前法華〉は発展した。
執筆者:

戦国末期に備前,美作両国を支配していた宇喜多直家は,1573年(天正1)岡山に入城,子秀家は両国および備中,播磨の一部を含めて約57万石を領し,岡山城下町を竣工した。関ヶ原の戦で没落した宇喜多氏に代わって岡山城主となった小早川秀秋は,備前,美作両国で約50万石を領したが間もなく無嗣断絶し,代わって1603年(慶長8)姫路城主池田輝政の次男忠継が,岡山藩主として備前一国約29万石を領した。忠継は15年(元和1)死去し(無嗣),代わって弟忠雄が備中一部をも合わせて31万5000石を領知し,その死後は同族池田光政が32年(寛永9)鳥取から岡山に入封し,以後光政系池田氏が襲封して明治維新におよんだ。岡山藩朱印高31万5000石のうち備前一国の約29万石は,御野,津高,赤坂,磐梨,和気,邑久,上道,児島の8郡634村(ほかに枝村38)から成り,1707年(宝永4)の家数4万8700,人口30万8600と推定される。岡山城下には家中武士(家族,奉公人とも)9710,侍屋敷1295軒,また町人の家数7844,人口3万0635で62町あった。当国は山陽道の要衝に位し,地勢は北部の吉備高原と南部の低地,沿岸平地より成り,旭,吉井の二大河川が南北に貫流して河口に広大なデルタを作り,気候温和で恵まれた富有の国柄である。江戸初期から〈名君〉といわれた池田光政をはじめとして文物両面の振興策がとられ,伝統的な先進地域の実をあげた。すなわち児島湾など河口,沿海部に大規模な干拓地(約10万石)が相次いで造成され,米麦のほか棉,菜種などの商品作物の栽培,児島を中心とする機業および塩業の発達,郷学閑谷(しずたに)学校の創設,伊部周辺の陶器(備前焼)生産などが,とくに注目される。

 維新後,1871年(明治4)備前国は岡山県となり,75年小田県(備中国)を,76年北条県(美作国)を合併して現在の岡山県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「備前国」の意味・わかりやすい解説

備前国
びぜんのくに

岡山県の南東部の旧国名。東は播磨(はりま)、西は備中(びっちゅう)、北は美作(みまさか)に接し、南は瀬戸内海に臨む。吉備(きび)国の一部で、天武(てんむ)朝(672~686)のころ備前、備中、備後(びんご)に分割され、ついで713年(和銅6)備前は北部6郡を分割され美作が新設された。分割当時の備前国は、邑久(おおく)、上道(かみつみち)、赤坂、御野(みの)、津高(つたか)、児島(こじま)の6郡であったが、721年(養老5)邑久・赤坂の両郡の一部を割いて藤原郡(のちに藤野郡)が置かれ、ついで788年(延暦7)藤野郡を吉井川を境に磐梨(いわなす)郡と和気(わけ)郡に分割して8郡となった。近世には上道郡を上東(じょうとう)郡と上道(かみみち)郡に分け備前9郡の時期もあった。備前の国府は上道郡の現岡山市中区国府市場(こくふいちば)に置かれ、国分寺は赤坂郡の現赤磐(あかいわ)市馬屋(まや)に建立された。一宮(いちのみや)は平安時代は現岡山市東区西大(さいだい)寺一宮の安仁(あに)神社、のちに現岡山市北区一宮の吉備津彦(きびつひこ)神社がこれにかわる。古代の山陽道は、播備国境の坂長から珂磨(かま)、高月、津高を経て備中に入った。中世には南下し三石(みついし)、片上(かたかみ)、福岡、藤井、辛川(からかわ)を経て備中へ、近世には藤井から岡山城下を経、万成(まんなり)坂を越える道にかわった。『和名抄(わみょうしょう)』によると、平安中期の水田面積は3185町7反32歩。『延喜式(えんぎしき)』によると、特産物は胡麻(ごま)、鹿革(しかがわ)、陶器、魚、塩など。奈良末期から鎌倉初期に、旭川、吉井川の河口に、鹿田荘(しかたのしょう)、野田荘、荒野荘、豊原荘、福岡荘、金岡(かなおか)荘などの大荘園はじめ多くの荘園が開発された。

 鎌倉時代には、佐々木、長井、松田、石橋ら多くの関東武士が移住し守護・地頭(じとう)となった。南北朝以後、播磨守護赤松氏が備前守護を兼ねたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以後、山名氏の所領となった。赤松政則(まさのり)が赤松氏を再興して旧領を復したが、政則没後は衰え、浦上(うらがみ)、松田の両氏が台頭し、やがて浦上宗景の家臣宇喜多直家(うきたなおいえ)が備前を統一し1573年(天正1)岡山に築城した。室町・戦国のころ、牛窓(うしまど)港は商業貿易で栄え、福岡は六斎市(ろくさいいち)(福岡市)が発達し、また長船(おさふね)とともに備前刀の産地として栄え、また和気郡伊部(いんべ)は備前焼の産地として発展した。

 直家の子秀家は豊臣(とよとみ)秀吉の猶子(ゆうし)となり、備前・美作および備中・播磨の一部を領し、新規に岡山城を築き、旭川を付け替え城下町を整備した。関ヶ原の戦い(1600)により宇喜多氏は滅び、小早川秀秋(こばやかわひであき)がこれにかわったが、1603年(慶長8)断絶し、姫路藩主池田輝政(てるまさ)の次男忠継(ただつぐ)が備前に封ぜられた。1616年(元和2)忠継が死去し弟忠雄(ただかつ)が淡路から移ったが、1631年(寛永8)若死にしたため、忠雄の子光仲(みつなか)は鳥取へ、鳥取藩主池田光政が備前へ移された。光政は儒教を信奉し、その理念に基づいて藩政を改革し教育を振興し、光政の子綱政(つなまさ)もその後を受け、閑谷黌(しずたにこう)、後楽園、藩営大新田をつくり藩政を整備した。その子孫は藩主を世襲して明治維新に至った。

 廃藩置県で備前は岡山県となり、県令高崎五六を迎え1875年(明治8)備中の小田県、翌年美作の北条県をあわせて今日の岡山県となった。

[柴田 一]

『谷口澄夫著『岡山県の歴史』(1970・山川出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「備前国」の意味・わかりやすい解説

備前国
びぜんのくに

現在の岡山県東部。山陽道の一国。上国。古くは吉備国の一部であった。『旧事本紀』によれば,応神天皇のとき上道 (かむつみち) ,大伯 (おほく) ,三野 (みの) の3国造が置かれたという。氏族としては吉備氏が分かれたものとみられ,のちには備前国東部に和気氏が台頭した。広大であった吉備国も天武天皇の頃に備前,備中,備後に分割され,さらに和銅6 (713) 年には備前国北部の6郡が分割され,美作国が置かれた。国府は岡山市高島,国分寺は赤磐市山陽。『延喜式』には和気郡,磐梨郡,邑久 (おほく) 郡などの8郡があり,このうち和気郡は,藤原郡改め藤野郡を神護景雲3 (769) 年さらに改名したもの。『和名抄』には 44郷,田1万 3185町を載せている。鎌倉時代の初め土肥実平が守護に任じられ,その後佐々木氏,長井氏が補された。南北朝時代から室町時代にかけては細川氏,松田氏の支配が続いたが,のち赤松氏が守護となった。戦国時代には宇喜多直家が支配し,その子秀家に及んだが関ヶ原の戦いに敗れて滅亡。江戸時代には初め小早川秀秋が入国したが,次いで池田氏が岡山に封じられ,のち支藩の新田に2藩が置かれて幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,岡山藩は岡山県,新田は深津県から小田県となり,1875年合併して岡山県となった。

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藩名・旧国名がわかる事典 「備前国」の解説

びぜんのくに【備前国】

現在の岡山県東南部を占めた旧国名。古く吉備(きび)国から、備前国、備中(びっちゅう)国(岡山県西部)、備後(びんご)国広島県東部)に分かれた。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の岡山市、国分寺は赤磐(あかいわ)市におかれていた。鎌倉時代に多くの東国御家人が移住した。室町時代には赤松氏が、戦国時代には宇喜多(うきた)氏が支配した。近世には池田氏が備前国のほか備中国の一部も合わせて岡山藩を支配した。1871年(明治4)の廃藩置県で岡山県となり、1875年(明治8)に小田(おだ)県(備中国)を、1876年(明治9)に北条(ほうじょう)県(美作(みまさか)国)を合併して現在の岡山県となった。◇備前国、備中国、備後国を合わせて備州(びしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「備前国」の解説

備前国
びぜんのくに

山陽道の国。現在の岡山県南東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では和気(わけ)・磐梨(いわなす)・赤坂・邑久(おおく)・上道(かみつみち)・御野(みの)・津高・児島の8郡からなる。国府は上道郡(現,岡山市)と推定され,国分寺は赤坂郡(現,赤磐市)におかれた。一宮は吉備津彦神社(現,岡山市)。「和名抄」所載田数は1万3185町余。「延喜式」には調として絹・糸のほか種々の土器がある。吉備国を7世紀後半に前中後に3分割したうちの一つで,713年(和銅6)北部が美作国として分立。刀の産地としても知られる。鎌倉時代には土肥実平(さねひら),ついで佐々木氏・長井氏などが,室町時代には赤松氏・山名氏が守護となり,戦国末期に宇喜多氏の領国となる。関ケ原の戦後小早川秀秋が入国,その後池田氏が岡山藩主となる。1871年(明治4)の廃藩置県により岡山県となり,数度の統合をへて76年旧美作国・備中国をあわせた現在の岡山県となる。

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百科事典マイペディア 「備前国」の意味・わかりやすい解説

備前国【びぜんのくに】

旧国名。山陽道の一国。現在の岡山県南東部。もと吉備(きび)国。《延喜式》に上国,8郡。国府は現在の岡山市。早くから開け,荘園が多く,中世の守護は土肥氏以後しばしば交替,末期に宇喜多氏が支配。近世初めに小早川氏,次いで池田氏の岡山藩
→関連項目岡山[県]中国地方

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