共産主義者同盟[ユーゴスラビア](読み)きょうさんしゅぎしゃどうめい[ユーゴスラビア](英語表記)Savez Kommunista Jugoslavia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

共産主義者同盟[ユーゴスラビア]
きょうさんしゅぎしゃどうめい[ユーゴスラビア]
Savez Kommunista Jugoslavia

略称 SKJ。旧ユーゴスラビア政党。 1919年4月ユーゴスラビア共産党として創立されたが,1920年代末には非合法化された。第2次世界大戦中は,J.チトーの指導により対ナチス・パルチザン戦を行なった。 45年 11月,ソ連の援助によらず独力で解放をなしとげ,5つの民族を総合して統一国家を打立てた。 48年,ユーゴスラビアをソ連の利害のもとにおこうとするスターリンのソ連中心主義と鋭く対立し,コミンフォルムを除名された。以来,ユーゴスラビア共産党=チトー主義=民族主義的右翼的偏向として,ソ連およびおもに東ヨーロッパの他の社会主義諸国の共産主義政党から非難を浴び,各国からの経済封鎖など困難な時代を迎えた。 52年第6回大会で,党名をユーゴスラビア共産主義者同盟と改称,非同盟中立を堅持しながら西ヨーロッパ諸国と接近し,国内民主化,利潤方式の導入など諸政策を採用して独自な社会主義建設の道を進んだ。 58年,第7回大会で,この路線を徹底化した新綱領を採択,このためスターリンの死後改善されていたソ連との関係は再び悪化し,各国共産党も一斉にこの新綱領を批判した。しかし 61年以降は,次第にユーゴスラビアの立場が公認されるようになった。 37年の中央委員会設置以来,一貫してチトーの指導下にあったが,チトーが死ぬと国内の多民族を統合する力が失われ,ソ連を含めた東欧民主化の影響を受けた。 90年1月の臨時党大会でスロベニア共和国代表が民主集中制の否定を主張して認められず退場したことから分裂大会となり,同年5月に再開された大会にも,クロアチア,マケドニア両共和国代表も欠席し,党の分裂を決定づけた。これに対しセルビアを中心とする保守派は,党名を「セルビア社会党」に変更し,同年 12月に行われた自由選挙で第1党を確保した。しかし同年から内戦状態に入り,東欧革命過程でユーゴスラビア自体が解体した。

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