翻訳|Serbia
基本情報
正式名称=セルビア共和国Republika Srbija/Republic of Serbia
面積=8万8361km2
人口(2010)=743万人
首都=ベオグラードBeograd(日本との時差=-8時間)
主要言語=セルビア語(公用語),ハンガリー語など
通貨=ディナールDinar
バルカン半島のほぼ中央部に位置する共和国で,モンテネグロ共和国とともにユーゴスラビア連邦(新)を,2003年より国家連合〈セルビア・モンテネグロ〉を構成したが,06年モンテネグロの独立により国家連合は消滅した。セルビア語ではスルビヤSrbija。北部にボイボディナ自治州,南部にコソボ自治州(現,コソボ共和国)が置かれている。ただし,ボイボディナ,コソボを除いた地域だけを狭義のセルビアとする場合もある。この国の歩みは,同じセルビア民族に発するモンテネグロと深く関連している。
モンテネグロの独立によりセルビアがセルビア・モンテネグロの承継国となった。議会は一院制で,定数250人,任期4年。2008年5月の選挙で民主党連合が102議席を占め,ハンガリー系連合も4議席を獲得。同年7月ツベトコビッチMirko Cvetkovićが首相に就任した。元首は大統領で,タディッチBoris Tadićが2004年6月に就任,08年2月に再任された。民族構成はセルビア人83%,ハンガリー人4%など(2002)。ヨーロッパ連合(EU)加盟を最優先課題としているが,EU側はセルビアの旧ユーゴ国際刑事裁判所への協力を加盟交渉進展の条件としている。一方,2008年2月コソボが独立宣言したが,セルビアはこれに反対している。国営企業民営化を通じて経済の活性化を図っている。1人当りの国民総所得(GNI)は3910ドル(2006),経済成長率7.5%,物価上昇率7.0%(いずれも2007)。
執筆者:編集部
バルカン半島のほぼ中央部に位置し,南東方からスターラ・プラニナ山脈,南方からロドピ山脈,西方からディナル・アルプス山脈が迫る山がちの地形で,平地は,北方のハンガリー平原の一部をなすボイボディナ一帯,サバ川流域のマチュバ(中心部シャバツ),モラバ川流域のポモラブリェ(パラチン,チュプリア,スベトザレボの中小都市がある)などに見られる。気候は,狭義のセルビアでは温和な大陸性で,年平均気温は11~12℃(1月は-1~+1℃,7月は22~23℃),年降雨量は600~800mm。河川は北からドナウ川がボイボディナ地方でティサ川と合してベオグラードに至り,サバ川を加えスメデレボでモラバ川を得てルーマニアとの国境沿いに流れる。これとブルガリアに近いティモク川がセルビアの主要な河川である。最高峰はコソボ西部のプロクレティエProkletije山塊にあるジュラビッツア山(2656m)である。湖は北方スボティツァ近くのパリッチ湖,水力発電用の人造湖にバイナバシュタ,ズボルニク,ブラシナなどの湖がある。
第2次大戦前のセルビアは圧倒的な農業地帯で,工業はあまり発達していなかった。狭義のセルビアの中心地はベオグラード南方,ドリナ川とモラバ両川に挟まれた起伏に富むシュマディア地方である。地名のシュマ(森)からもわかるように,19世紀まで森林におおわれ,木の実を飼料とした豚を中心に畜産が盛んであった。畜産は現在,共同農場で行われている。銅,スズ,金,銀などの地下資源はすでにローマ時代から有名で,ネマニッチ朝(12~14世紀)時代の中世セルビアの繁栄はドイツ人,イタリア人,ドゥブロブニク人の援助で鉱山の再開発が行われ,それによって得られた富に負うところが大きかった。だが第2次大戦前は大部分が外国資本家の手中に帰し,搾取されていたのを,戦後は社会有として国民の利益に還元できるようになった。最も重要なボール,マイダンペック,ベリキ・クリベリの銅山は国内の全埋蔵量の90%,アンチモンの全産出を占める。ここにはほかにスズ,モリブデン,タングステン,チタンの鉱床があり,ズラティボル,コパオニクには国内のマグネサイトの大部分を産出する鉱床のほか,アスベスト,石英砂の埋蔵も確認されている。
第2次大戦後は急速に工業化が推し進められ,工業人口は農業人口を上回った。コソボとボイボディナ地方を除くおもな工場をあげると,スメデレボの製鉄所,日本の技術も入っているロズニツァのビスコース工場,ニーシュの機械工場,クラグイェバツにあるバルカン半島最大の〈ツルベナ・ザスタバ(赤旗)〉自動車工場,ベオグラードのゼムン地区にある〈ズマイ(竜)〉農業機械工場,製薬工場,ジェレズニク地区の機械工場,スメデレフスカ・パランカの〈ゴシア〉車両工場があり,ほかに食品・繊維・化学・製材・皮革工場など多くを数える。
セルビア人は7世紀初頭,ビザンティン帝国の支配下にあったバルカンへ移住した。セルビアはまとまりを欠いた部族国家で,領土も海岸部のゼータZeta(現在モンテネグロ),フムHum(現在のヘルツェゴビナ)と内陸部のラシュカRaška(中心部ラス。現在のセルビア南西部)に分かれていた。族長(ジュパン)の一人チャスラフČaslav(在位931-960)は一時広大な領土を手中にしたが短命に終わり,1042年ころボイスラフ公が海岸部を統一した。息子ミカエルがラシュカを加えて教皇から王冠を受け(1077),その子ボディンBodin(在位1081-1101)はさらに王国を拡大した。彼が死ぬと内戦で王国は崩壊し,12世紀には政治の中心地がラシュカへ移った。1169年ステファン・ネマーニャがラシュカの大ジュパンになり,中世セルビアを200年支配するネマニッチ朝を創始し,ゼータを併合,異教徒のボゴミル派を追放した。その末子ラストコRastkoは修道士となり(洗礼名サバSava),コンスタンティノープル総主教管下にあったセルビア教会を独立させ,自ら初代大主教となった(1219)。他方,長子ステファン・プルボベンチャニStefan Prvovenčani(初代戴冠王)は1217年ローマ教皇から王の称号を得たが,サバの影響で王国は9世紀以来のギリシア正教を信奉しつづけた。ステファン・ドゥシャン(在位1331-55)時代に中世セルビアは最盛期を迎え,大主教座を総主教座に格上げした彼は,新首都スコピエで帝王となった(1346)。その最大版図は,セルビア,マケドニア,アルバニア,ギリシアの中部までおよび,3年後には法典を発して国内をかため,ビザンティン帝国にとって代わろうとしていた矢先,46歳で熱病に倒れた。
その後領土は分裂し,諸侯が割拠したため,1371年,オスマン・トルコにマリツァ河畔で敗れ,さらに89年6月28日コソボの平原で決定的な敗北を喫した(コソボの戦)。セルビア人はこの日を決して忘れず,民謡と伝説に滅びの美学を語り伝えた。その後セルビアは領土を縮小され,半独立国として命脈を保ったが,1459年最後の首都セメデレボも落ち,以後350年間トルコの支配下に入った。同じ1459年独立セルビア教会もオフリト大主教座に従属することとなり,自由を求めるセルビア人の群れが以前にも増してドナウ川を越えてハンガリー領のボイボディナへ避難していった。彼らはやがて19世紀の新生セルビア国家に有能な人材を提供する。それはおもに愛国的な文人,医師などで,ブダペストやウィーンから往時の新思潮をとり入れて,ベオグラードに紹介した。
オスマン帝国支配下のセルビア農民の状態は18世紀に入って悪化の一途をたどり,イエニチェリといわれるオスマン帝国の守備隊の横暴が18世紀末に目だつようになって,19世紀初頭のセルビア蜂起をひきおこした。1804年の第1次セルビア蜂起を指揮したカラジョルジェビッチ朝の始祖カラジョルジェは,まずセルビア中央部のシュマディア地方を解放した。だが後ろ盾と頼むロシアがナポレオン戦争に忙殺されていた1813年,オスマン帝国軍の反撃に遭い挫折,ハンガリーへ逃れた。2年後彼の部下だったミロシュ・オブレノビッチが第2次蜂起を成功させ,オブレノビッチ朝を確立して,29年アドリアノープル条約によって自治を得,30年には世襲のセルビア公に就任した。その間,ひそかに帰国したカラジョルジェがミロシュの刺客に殺され(1817),以後セルビア最大の不安定要因となった2王朝の宿怨関係が生じた。オブレノビッチ家の支配はミロシュ(在位1815-39),ミハイロMihailo(在位1839-42)と続き,カラジョルジェビッチ家のアレクサンダルAleksandar(在位1842-59)が一時は登極したものの,再びミロシュ(在位1859-60),ミハイロ(在位1860-68)の2人が復位した。ミハイロは有能な統治者で,10万の正規軍をつくり,憲法を改正し,選挙法と裁判制度を確立するなどセルビアの近代化に努め,67年ついにベオグラードからもトルコ守備隊を撤兵させた。しかし政敵に暗殺され,ミラン(在位1868-89),アレクサンダル(在位1889-1903)が後続した。オブレノビッチ家の人びとは,ミロシュ以来,教養は低かったが外交的手腕にすぐれ,オスマン帝国からさまざまな譲歩を獲得していった。78年ついにベルリン条約によって独立を達成,82年には王国を宣言した。しかしながら失政や醜聞も多く,アレクサンダルは1903年将校団によって王妃ともども虐殺されてしまった。
亡命地から帰国したペータル・カラジョルジェビッチPetar Karađorđević(1844-1921)が代わって即位すると,自由主義的な空気がもたらされ,オーストリア・ハンガリーとの関税論争にもかかわらず貿易も拡大した。教育の進歩と交通の改善で国力も充実して,ボイボディナのセルビア人ばかりでなく,クロアティア人やスロベニア人にも南スラブ民族の解放者として映った。セルビアが両次バルカン戦争の輝かしき勝利者になると,南スラブ人の統一国家はにわかに現実性を帯びてきた。久しく海への出口を求めていたセルビアは,マケドニアを得てもテッサロニキは入手できず,アドリア海への道もセルビア人の多く住むボスニア,ヘルツェゴビナがオーストリアに併合された(1908)ことで絶望的となった。同胞との大同団結を願うセルビアと,自国内の南セラブ民族を押さえこもうとするオーストリアとは,いずれ激突する運命にあった。14年6月28日,コソボの敗戦記念日にサラエボ事件が起こり,第1次世界大戦が勃発すると,バルカン戦争で疲弊していたセルビア軍は,オーストリア,ドイツ,ブルガリアの3軍に屈服し,雪深いアルバニアを大退却してギリシアのコルフ島に逃れた。そこで態勢を立て直し,テッサロニキ戦線に加わり連合軍の対ブルガリア戦勝利に大きく貢献したが,この戦争でセルビアは総人口500万のうち100万の犠牲者を出したといわれる。第1次大戦でオーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊した結果,18年12月1日に南スラブ諸民族を統一した国家〈セルビア人クロアティア人スロベニア人王国〉がカラジョルジェビッチ家の下で成立し,セルビアは新生ユーゴスラビア国家の一員となった。
セルビアは観光地に恵まれているとはいえないが,中世の修道院とその内部を飾るフレスコ画,イコンの数々は,ビザンティン美術の影響が色濃い貴重な遺品として一見の価値がある。代表的なものはセルビア南西部にある13世紀のミレシェボMileševo,ソポチャニSopočani修道院で,その壁画は,ジョットより前に人間的な作風をすでに完成しており,ルネサンス美術との関連から興味深い問題を投げかけている。セルビア人は陽気で,客もてなしが好きである。正教徒の家族がそれぞれの守護聖人の日を祝う〈スラバ〉や,村の結婚式,市の日などに出くわせば,現代社会では見失われがちな人情に触れることができる。
執筆者:田中 一生
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セルビア語ではスルビヤという。2003年に成立した連合国家セルビア・モンテネグロを構成する共和国。首都はベオグラード。12~15世紀に中世セルビア王国が建国され,400年に及ぶオスマン帝国支配のあと,19世紀に近代セルビア王国が成立した。1918年の南スラヴ統一国家セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(29年からユーゴスラヴィア王国)では,セルビアの王朝が継続して新国家の王朝となった。第二次世界大戦後,社会主義のユーゴスラヴィア連邦では6共和国のうち最大の共和国となる。旧ユーゴスラヴィアの解体に伴い,モンテネグロとともにユーゴスラヴィア連邦共和国を建国した。2003年,連合国家セルビア・モンテネグロに再編。セルビア共和国はハンガリー人を多く含むヴォイヴォディナ自治州,アルバニア人が多数を占めるコソヴォ自治州をかかえており,コソヴォの独立問題,ヴォイヴォディナの自治権拡大要求など問題は多い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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