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セルビア セルビア Serbia

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

セルビア
セルビア
Serbia

正式名称 セルビア共和国 Republika Srbija。面積 7万7498km2。人口 726万2000(2011推計) 。首都 ベオグラードバルカン半島中部を占める国。ハンガリールーマニアブルガリアマケドニアコソボアルバニアモンテネグロボスニアヘルツェゴビナクロアチアと接する。

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デジタル大辞泉の解説

セルビア(Serbia)

バルカン半島中央部にある共和国。首都ベオグラード。旧ユーゴスラビアの政治・経済の中心をなした。14世紀からオスマン帝国の支配下にあったが、1918年に周辺他民族とともに独立。王政を経て1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国を構成する1国として社会主義国となった。1990年代にスロベニアクロアチアボスニア‐ヘルツェゴビナマケドニアがユーゴスラビアより分離独立、2006年にモンテネグロが独立しセルビアは内陸国となった。2008年2月コソボが独立を宣言。人口734万(2010)。スルビヤ。

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百科事典マイペディアの解説

セルビア

◎正式名称−セルビア共和国Republika Srbija /Republic of Serbia。◎面積−7万7474km2。◎人口−719万人(2011)。
→関連項目クリミア戦争ミロシェビッチ

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世界大百科事典 第2版の解説

セルビア【Serbia】

バルカン半島のほぼ中央部に位置する共和国で,モンテネグロ共和国とともにユーゴスラビア連邦(新)を構成する。セルビア語ではスルビヤSrbija。国名はセルビア共和国Republika Srbija(Republic of Serbia)。面積8万8361km2,人口990万9000人(1995)。首都ベオグラードはユーゴスラビア連邦の首都でもある。北部にボイボディナ自治州,南部にコソボ自治州が置かれている。

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大辞林 第三版の解説

セルビア【Serbia】

バルカン半島中央部に位置し、ドナウ川によって黒海に通じる内陸国。2003年モンテネグロと連合国家セルビア-モンテネグロを構成。06年モンテネグロの独立により、連合国家の承継国となる。小麦・トウモロコシを産し、銅・鉛など地下資源にも富む。主要言語はセルビア語。首都ベオグラード。面積8万8千平方キロメートル。人口940万( 2006)。正称、セルビア共和国。 〔「塞爾維」とも当てた〕

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

セルビア
せるびあ
Republic of Serbia英語
Република Србиjа Republika Srbija セルビア語

ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和国。正式名称は、セルビア共和国。セルビア語ではスルビヤSrbija。北をハンガリー、北東をルーマニア、東をブルガリア、南をマケドニアとコソボ、西をクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロと接する。面積は8万8361平方キロメートル(コソボを除くと7万7474平方キロメートル)、人口747万9437 (2002センサスコソボ自治州は除く)、約940万(2006推計、国連暫定統治下のコソボ含む)。首都はベオグラード。なお、セルビア共和国内には、北部にボイボディナ、南部にコソボの2自治州がある(ただし、コソボ自治州は2008年2月に「コソボ共和国」としてセルビアからの独立を宣言、ヨーロッパ連合(EU)諸国、アメリカなどは独立を承認したが、セルビアは認めていない)。
 もともとは ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つで、1992年からはモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を構成していたが、2003年2月公布の新憲法(憲法的憲章)に基づき、両共和国の行政権を大幅に拡大した、より緩やかな連合国家へ移行、国名をセルビア・モンテネグロと改称した。その後は、連合国家セルビア・モンテネグロの構成共和国となっていた。しかし、モンテネグロは、かねてより分離独立志向が強く、通貨、経済・法律体制などもセルビアとは異にしており、2006年5月に独立の是非を問う住民投票を実施、賛成多数で独立を決定し、同年6月独立宣言した。こうして、モンテネグロが連合国家セルビア・モンテネグロから離れて、モンテネグロ共和国として独立したことを受け、同年6月セルビアは、セルビア・モンテネグロの承継国である独立国家セルビア共和国となったのである。
 住民は、セルビア人が多いが、アルバニア人、ハンガリー人、クロアチア人、モンテネグロ人、ロマなど多民族によって構成される。第一の公用語はセルビア語だが、モンテネグロ語、ボスニア語、ハンガリー語、アルバニア語、ロマ語、クロアチア語、スロバキア語、ルーマニア語など、多くの言語が用いられている。宗教は、セルビア正教徒が多く、ほかにカトリック、イスラム教徒、プロテスタントなどとなっている。
 北部はドナウ川が貫流し、ハンガリー大平原の一部をなす。とくにティサ川流域は、この平原のもっとも低い地域に相当し、しばしば洪水にみまわれる。中部はモラバ川流域の低地と、ロドピ楯状地(たてじょうち)に属する高原地帯からなる。南東部は構造的にはカルパティア山脈に属し、ドナウ川による横谷部では鉄門峡をはじめ多くの峡谷があり、大規模な水力発電が行われている。温暖な大陸性気候で、平原部はセルビア屈指の穀倉地帯であり、トウモロコシ、小麦、ヒマワリの栽培が盛んである。セルビアの農業生産はきわめて高い。銅、亜鉛、アンチモン、金、銀の資源に恵まれ、また工作機械、自動車、電器、化学の工業が盛んである。[漆原和子]

歴史

7世紀初頭、セルビア人がこの地方に定住した。以後12世紀に至るまで、さまざまなジュパン(族長)の抗争が続いた。内部の結束を欠いていたので、外部勢力の影響を受けやすく、一時ブルガリアの支配下に置かれたが、概してビザンティン帝国の統治を受けた。宗教的にも9世紀後半に、ビザンティン皇帝の要請を受けたキリロスとメトディオスの伝道活動により、東方正教会の影響下に入った。1168年、ネマーニャStefan Nemanja(在位1168~1196)はビザンティン帝国の内紛に乗じてその勢力下から脱し、セルビアを約200年間支配するネマーニャ朝を創設した。彼の後継者たちは国内の統一、領土の拡大、経済発展に力を尽くした。なかでも14世紀前半、ドゥシャン王Stefan Duan(在位1331~1355)の時代が最盛期であり、その領土はバルカン半島の南部をほぼ覆い、ビザンティン帝国に迫った。しかし1389年のコソボの戦いを契機として、オスマン・トルコのバルカン進出が決定的となり、以後400年以上にわたり、オスマン帝国の支配を受けた。長いオスマン帝国の統治下で、セルビア人はセルビア正教会や民族叙事詩を通して民族性を保ち、19世紀初頭、他のバルカン諸民族に先んじてオスマン帝国に対し二度にわたる蜂起(ほうき)(1804~1813年、1815年)を企てた。その結果、1830年に完全な自治を有する公国となった。1878年、ロシア・トルコ戦争後のベルリン条約により王国として正式な独立を承認され、以後、近代国家としての発展を遂げる。20世紀に入り、ハプスブルグ帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)との関係が悪化し、これが第一次世界大戦を引き起こす原因となった。第一次世界大戦後の1918年、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年以後、ユーゴスラビア王国と改称)の中心地となった。[柴 宜弘]

ユーゴスラビアからセルビア・モンテネグロ、そして21世紀のセルビアへ

南スラブの統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」はセルビア王国のカラジョルジェビッチ王朝のアレクサンダルを国王として、政治的にはセルビア中心の集権体制が築かれた。そのため、分権制を主張するクロアチアとの対立が顕著となった。両者の対立はユーゴスラビア最大の民族対立として継続した。1941年、ユーゴがドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻を受けると、セルビアはドイツの占領下に置かれ、傀儡(かいらい)政権がつくられた。これに対して、ユーゴ王国軍のなかでも降伏を受け入れないセルビア人の将兵が、ミハイロビッチDraa Mihailovi(1893―1946)のもとにチェトニク部隊を結成し、山岳地に立てこもって抵抗運動に着手した。しかし、チェトニクは具体的な抵抗運動を行わないうちに、ドイツ軍と協力関係をもつようになり、勢力を拡大できなかった。1944年10月、ようやくパルチザンによる対独抵抗運動が勝利を収め、首都ベオグラードが解放された。1945年11月、チトーを首班とするユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年からはユーゴスラビア社会主義連邦共和国が正称、旧ユーゴスラビア)が成立し、セルビアはボイボディナとコソボの2自治州をもつ人口最大の共和国となった。
 第二次世界大戦後の自主管理社会主義体制下で分権化が進められたが、1960年代までは事実上、セルビア人のランコビッチAleksandar Rankovi(1909―1983)が内務機関を統括しており、集権的体質が継続していた。ランコビッチが追放され、1960年代後半には自由化政策が推進された。「74年憲法」(1974年に改正されたユーゴスラビア憲法)により、6共和国と2自治州の「経済主権」が認められ、緩い連邦制が導入された。1980年代の「経済危機」と共和国への昇格を求めるコソボのアルバニア人分離独立問題が長期化するなかで、セルビアでは連邦制の強化を求め、「74年憲法体制」に対する不満が高まっていく。セルビアの民族主義の高まりを背景にして、ミロシェビッチSlobodan Miloevi(1941―2006)がセルビアの指導者として登場した。1980年代末には、連邦制の強化か、さらに緩い国家連合への移行かで、セルビアとスロベニアが対立した。旧ユーゴが解体へと向かうなか、1990年に行われた自由選挙では、セルビア社会党と改称した共産主義者同盟が勝利を収めた。旧ユーゴが解体していく過程においても、セルビアとモンテネグロはともに連邦維持の立場を貫く。1991年6月スロベニア、クロアチアが独立を宣言し、内戦を伴うユーゴ紛争が始まった。1992年1月には両国がEU(ヨーロッパ共同体)諸国の承認を受け、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が実質的に解体、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。同年4月セルビアとモンテネグロは、旧ユーゴを継承するユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)の成立を宣言した。ミロシェビッチは1987年にセルビア共和国幹部会議長に就任して実権を掌握して以来、新ユーゴにおいても1992年にセルビア共和国大統領(1992~1997年)、1997年には新ユーゴ連邦の大統領に就任した。
 1995年にボスニア内戦が終息したが、ミロシェビッチ政権のもと、1998年に入っても新ユーゴは国際復帰を果たせず、経済不振が継続するなか、コソボ問題と自立傾向を強めるモンテネグロ共和国の問題が表面化した。とくに、コソボ自治州で多数を占めるアルバニア人勢力が独立を求めたコソボ紛争が生じた。国連やアメリカ、EUなど国際社会が仲介し、和平交渉が行われた。しかし、ミロシェビッチ政権が最終的な和平案を拒否したため、1999年3月、国際社会は「人道的介入」に踏み切り、新ユーゴはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍の空爆を受け、多大な被害を被った。新ユーゴ連邦軍が展開したコソボ自治州では、大量のアルバニア系住民の難民が発生した。同年6月、ミロシェビッチがG8(ジーエイト)(主要8か国)の提案する和平案を受け入れ、新ユーゴ連邦軍はコソボから撤退した。78日間に及ぶ空爆はやみコソボ和平が成立したが、ミロシェビッチはこの過程でオランダ・ハーグの旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷から、反人道的行為や大量殺害の罪で戦犯として起訴された。2000年9月、経済制裁の続く最悪の経済状態のもとでの大統領選でミロシェビッチは敗北、10月の「民衆革命」により、13年に及ぶミロシェビッチ政権は崩壊し、セルビア野党連合(DOS)のコシュトゥニツァが新大統領となった。2003年2月、連邦議会において、新ユーゴスラビアを連合国家として再編するための憲法的憲章が採択、公布されたことにより、国名が「セルビア・モンテネグロ」に変更された。これに伴い、「ユーゴスラビア」という国名は完全に消滅した。
 一方、モンテネグロ共和国はユーロを通貨とするなど、経済や法律などの体制もセルビアとは異なり、かねてより独立志向が強かった。「セルビア・モンテネグロ」移行後も、独立に向けて準備を進めた。2006年5月21日、独立の是非を問う住民投票がモンテネグロで実施され、独立賛成票が55%を超えた。この結果、独立賛成案が議会で可決され、同年6月3日にモンテネグロは独立を宣言、モンテネグロ共和国となった(2007年の新憲法で正式名称はモンテネグロとなる)。このモンテネグロの独立を受け、2006年6月セルビアは、「セルビア・モンテネグロ」の承継国としてセルビア共和国となり、国家機関の再編が行われた。
 セルビア共和国の政体は共和制。元首は大統領。初代大統領は民主党党首のボリス・タディッチBoris Tadic(1958― 、任期2004~ )。議会は1院制(定数250)で、民主党、進歩党、セルビア社会党、セルビア急進党、セルビア民主党、G17プラスなどからなる。首相は民主党のツベトコビッチMirko Cvetjovic(1950― 、任期2008~ )。
 コソボ問題の解決とEU加盟を最優先事項とし、ヨーロッパ諸国との関係強化を図っている。NATOに対する国民の不信感は根強いが、2006年にNATOと「平和のためのパートナーシップ」を締結した。EUとの関係も急速に進み、2008年に安定化連合協定を結び、2009年12月に加盟申請を提出した。経済回復、生活の向上が最大の政治課題である。[柴 宜弘]

コソボ紛争・コソボの独立

コソボ自治州の面積は1万0887平方キロメートル、州都はプリシュティナ。人口は約190万(2002推計)、220万(2008推計)、民族構成はアルバニア系88%、セルビア系6%、その他(ボスニア人、ロマ、トルコ系など)6%である。
 コソボ紛争は、長い歴史的背景をもつが、コソボ自治州の自立・独立を目ざすアルバニア系住民と、それを認めないセルビア当局の争いである。1998年2月、セルビア治安部隊がコソボの独立を目ざすアルバニア系の武装組織であるコソボ解放軍(KLA)に対して、掃討作戦を展開した。これを契機として、両者の武力衝突が激化し、新ユーゴ連邦軍も介入した。国際社会はこの紛争に多大な関心を示し、政治的な解決を目ざした。しかし、政治的な解決は打ち切られ、1999年3月には安保理決議を経ずに、アメリカ軍を中心とするNATOがミロシェビッチ政権によるアルバニア人の人権抑圧に対する「人道的介入」を理由として、ユーゴ空爆を実施した。これに対し、セルビア側も大規模なアルバニア系住民追放を行ったため、大量のアルバニア人難民が発生した。同年6月初め、ミロシェビッチ政権がG8の和平案を受け入れるに至り、コソボ和平が成立した。国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)とNATO中心の国際部隊の管理のもとで、コソボの自治の回復が図られた。なお、NATOのユーゴ空爆で使用された劣化ウラン弾によるとみられる被害(白血病や癌(がん)などを発症する健康被害)が、「バルカン症候群」とよばれ問題となった。
 2000年にミロシェビッチ政権が崩壊したあと、2001年に初めての自治州議会選挙が行われ、コソボ暫定自治政府が成立した。国連の暫定統治下で、コソボの最終的な地位をめぐり、セルビア政府とコソボ政府との交渉が断続的に続けられたが、領土の一体性を主張してコソボの独立を認めないセルビアと、独立以外の選択肢をもたないコソボとの溝は埋まらなかった。コソボ政府はアメリカと密接な協議を重ねたうえで、2008年2月、セルビアからの一方的な独立を宣言した。アメリカやEUの主要国は、すぐにコソボの国家承認をしたが、コソボと同様の問題をかかえるロシアや中国、EU内のスペイン、ギリシャ、ルーマニアなどの反対は強い。国際社会の一致した承認が得られず、コソボは「未承認国家」のままで、国連に加盟できない状態に置かれている。日本は同年3月コソボを承認した。セルビアはコソボ北部地域を実効支配したままであり、国連のもとで、問題解決に向けて、セルビア政府とコソボ政府の直接交渉が進められることになっている。[柴 宜弘]

経済・産業

通貨はディナールDinar。主要産業は、製造業(鉄鋼、繊維、ゴム製品など)、農業(果実、小麦など)。GDP(国内総生産)は約400億ドル、一人当りGDPは5383ドル、貿易額は輸出約88億ドル、輸入約184億ドル(2007)、主要輸出品目は鉄鋼、野菜・果実などの食料品、化学薬品、繊維製品など、主要輸入品目は石油、自動車、機械類など、主要貿易相手国はロシア、ドイツ、イタリア、ボスニア・ヘルツェゴビナなど(2005)。[柴 宜弘]

文化

古来さまざまな民族が往来し、旧ユーゴスラビアを経て今日に至るまで複雑な多文化国家という性格が強い。また、西欧と東方ビザンティンの文化が交わる地域としての歴史をもち、文化遺産にもその影響が色濃く残る。世界遺産の登録地としては、スタリ・ラスとソポチャニ(中世の西欧とビザンティンの文化交流を伝える歴史的建造物群)、12世紀ネマーニャ朝の創始者S・ネマーニャによって建てられたストゥデニツァ修道院、コソボ西部にあるデチャニ修道院、ペーチ総主教修道院、プリズレンのリェビシャの生神女教会、グラチャニツァ修道院を含むコソボの中世建造物群、セルビア東部のガムジグラードとガレリウスの宮殿ロムリアーナがある。デチャニ修道院は中世バルカン地方最大の修道院でありビザンティン様式の壁画が有名。
 スポーツではサッカー、バスケットボールなど球技が盛んである。サッカーでは、近年日本のJリーグで活躍する選手も輩出している。とくに名古屋グランパスエイトに在籍したストイコビッチは有名。クラブチームのレッドスター(ツルベナ・スベズダ)・ベオグラードは、トヨタカップ(ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ)で優勝したことがある。チェスの強国としても知られ多数のグランドマスター(GM)を擁する。[柴 宜弘]

日本との関係

旧ユーゴスラビア連邦時代以来の親日国であり、ベオグラード大学言語学部、ベオグラード語学専門学校には日本語科も設けられ、多くの人々が日本語を学んでいる。また、各地に日本の武道(合気道、剣道、空手、柔道)や囲碁、俳句などのクラブがあり、活発な活動を展開している。2011年3月、タディチ大統領が訪日した。日本への輸出額は約11億円、日本からの輸入額は約32億円(2007)である。[柴 宜弘]
『柴宜弘著『ユーゴスラヴィアで何が起きているか』(1993・岩波ブックレット) ▽柴宜弘著『バルカンの民族主義』(1996・山川出版社) ▽伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾監修『東欧を知る事典』(1993・平凡社) ▽月村太郎著『オーストリア=ハンガリーと少数民族問題―クロアティア人・セルビア人連合成立史』(1994・東京大学出版会) ▽クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社) ▽アンドリッチ著、田中一生訳『サラエボの鐘』(1997・恒文社) ▽中島由美著『バルカンをフィールドワークする』(1997・大修館) ▽ウグレシィチ著、岩崎稔訳『バルカン・ブルース』(1997・未来社) ▽『現代思想臨時増刊・ユーゴスラヴィア解体』(1997・青土社) ▽D・ロクサンディチ著、越村勲訳『クロアティア=セルビア社会史断章――民族史を越えて』(1999・彩流社) ▽町田幸彦著『コソボ紛争――冷戦後の国際秩序の危機』(1999・岩波ブックレット) ▽長倉洋海著『コソボの少年』(2000・偕成社) ▽大石芳野写真『コソボ絶望の淵から明日へ』(2004・岩波書店) ▽四方田犬彦著『見ることの塩―――パレスチナ・セルビア紀行』(2005・作品社) ▽柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書) ▽木村元彦著『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(集英社新書) ▽千田善著『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)』

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