市原村清兵衛(読み)いちはらむら・せいべえ

朝日日本歴史人物事典 「市原村清兵衛」の解説

市原村清兵衛

生年生没年不詳
丹波国篠山藩(兵庫県)寛政12(1800)年直訴の義民。篠山藩領多紀郡(今田町)市原村の貧農民。多紀郡の農民は,池田,伊丹に季節的な酒造出稼ぎに出ていたが,江戸中期の灘五郷の発展とともに出稼ぎは増大した。労働力の流出と労賃高騰に困った地主層は,藩に働きかけて,出稼ぎに対して制限政策をとらせた。これに対して酒造出稼ぎの嘆願が行われたが許可されなかった。清兵衛は,寛政12年,息子を伴って江戸へ行き,制限撤廃を江戸在府中の藩主青山忠裕に直訴した。父子は10年余投獄されたが,酒造出稼ぎは享和2(1802)年自由となった。文化8(1811)年出牢後,10年目安箱訴状を入れたことにより国払いとなり,伊丹に移住。丹波杜氏恩人として崇められている。<参考文献>『兵庫県史』4巻

(三宅紹宣)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「市原村清兵衛」の解説

市原村清兵衛 いちはらむら-せいべえ

?-? 江戸時代後期の農民。
丹波市原村(兵庫県篠山(ささやま)市)の貧農。池田・伊丹(いたみ)への酒造出稼ぎ制限の撤廃をもとめ,寛政12年(1800)子の佐七とともに江戸の篠山藩主青山忠裕(ただやす)に直訴。訴えがみとめられて出稼ぎ自由になったが,父子は投獄される。文化8年出獄,のち目安箱に訴状をいれたため追放され,伊丹に移住したという。

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